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Chapter 2 ドーハ世界陸上:コーチと両親からの言葉

 試合後、選手たちはテレビや記者がいるミックスゾーンと呼ばれる場所で試合内容や感想などを話す。ウォーミングアップを始めた時間から、すでに5時間近く経過し、疲労も極限に達していた。しかし、怪我などの緊急事態がなければ、選手は必ず通らなければならない。
 橋岡は重い足取りで、記者の前に現れた。
 初めての世界陸上で決勝進出し、走幅跳では日本人初の入賞。東京五輪でも大きな期待がかかる。集まった記者たちが矢継ぎ早に質問してくる。
 跳躍内容、悔しさ、入賞への安堵、疲労。
 ゆっくりと言葉を選びながら、丁寧に受け答えをする。
「ミックスゾーンを通るのが嫌だなぁと思っていましたが、言葉にすることで、自分で気づくこともありました。ミックスゾーンは、頭の中を整理する場所として機能しているのかなと思います。満足できなかった試合のときは、『悔しい』と本音を口に出せますから」
 ほかの選手たちの好パフォーマンスを目の前で見せつけられ、唇を噛み締めるような悔しさを感じていたが、当然ながらスタジアム内でそれを言葉にすることはない。
 悔しい。
 それを認めたことで、自分の弱さ、敗北を受け入れることができた。
 ウォームアップ場に戻ると、日本大学で指導を受けるコーチの森長正樹氏が待ち受けていた。
 森長氏は試合中、スタジアムのバックストレート観客席から橋岡の跳躍を確認し、1本ずつ指示を出してくれた。思うような跳躍ができず何度も首をひねる橋岡に対して、穏やかな口調で話しかけていた。
 橋岡が結果に満足していないのは、近くにいた森長氏が一番分かっていた。
「悔しいだろうけど、入賞できてよかった」
 こう声をかけたのには理由があった。
 森長氏が初めて世界大会に出場したのは、20歳で迎えたバルセロナ五輪。大会前に8m25の日本記録を樹立し、期待されて臨んだ大会だったが、7m79で予選落ち。続く21歳のときに出場したドイツ・シュトゥットガルト世界陸上も世界の壁に阻まれ、決勝進出はできなかった。
 森長氏が決勝進出を成し遂げたのは、3度目の世界大会出場となった1997年のアテネ世界陸上だったが、決勝では9位。入賞となる8位の選手とは、わずか2cmの差だった。
「入賞できてよかった。俺は世界選手権で9位だったから」
 いつものように柔和な表情で話していたが、森長氏の言葉には重みがあった。
「自分の経験を話してくれて、雰囲気を和ませてくれました」
 橋岡はそう振り返る。
 ドーハまで応援に駆けつけた両親も森長氏と同じようにねぎらいの言葉をかけてくれた。
「入賞できてよかったね。思うような記録は出せなかったかもしれないけれど、8位入賞という実績を得た事は大きい事だよ。ベスト8というのは今後の活動で天と地の差が出てくるからね」
 初のシニアの世界の舞台で、決勝進出し、きっちり入賞を果たしたことに、両親ともに喜びとともに安堵もあった。
 森長氏と同様、橋岡の両親も、何度も勝負の綾を経験してきた。数センチに泣いたことも、笑ったこともある。
 父、利行さんは棒高跳びの元日本記録保持者で日本選手権7度の優勝を達成。母、直美さんも100mハードルでインターハイ3連覇のほか、100mハードルと三段跳で日本記録を樹立した経験を持つ。
「両親にかけてもらった言葉にとても助けられました。トップでやっていく上での考え方、姿勢などを教えてもらった気がします」
 両親ともに元日本記録保持者で、橋岡はサラブレッドとして世間から期待と注目されている。本人も両親もそれは分かっている。だから、あえて息子に余計なプレッシャーを与えるようなことはしない。
「試合前にはそんなに話さないですね。来年は五輪だし、今年は無理しなくていいんじゃないの。楽しんで行ってらっしゃい、と言われました。2人とも陸上選手だったから、そういう言葉が出てくるんでしょうね」
 時にはサポーターとして、時には経験値の高い年上のチームメイトとして接してくれることに感謝し、
「やっぱり親、すごいなって思いましたね」と橋岡は表現する。
 灼熱のドーハで自分の良さを出すことはできなかった。目標にも及ばなかった。自分を見失い、自滅した悔しさは、ずっと胸に刺として残っている。
 しかしコーチの森長氏、両親の言葉で、結果を受け入れることができた。
 もう同じ失敗はしない。東京では自分の跳躍をする。
 そう誓ってドーハを後にした。

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