親父へ。



手紙を書くのは小学六年生の時に
「両親への感謝」みたいな時に書いて以来ですね。


その時は確か声に出さずに「これ読んで」とか言って渡して恥ずかしかった記憶が少しだけある。



今自分が覚えてる家の記憶を遡ってるんだけど
保育園の時の家かな。
基本はママっ子で「ママーママー」言ってて
自分にとってパパは怖い存在。
普段は仕事でいないし帰ってきても野球観て、お酒飲んで巨人の結果次第で気分が変わる。
そしてプライドの塊でキレるタイミングもよくわからなかった笑


とりあえず「怖い存在」これが一番最初のイメージだね。なんだかんだ高校卒業するまでこのイメージだったんだよ。良くも悪くも笑




でもママっ子の自分は
離婚する時母親について行くと思ってたのに
「ゆきと一緒に死ぬ」と母親が言った一言で親父に着いていった。本当に余計な一言だったし、人生を変える一言だったと思う。


そこから親父が母親代わりをする訳だから
今思えばものすごく大変だったと思う。

親父は昔は自分から見ても中々人望があって
人付き合いもうまく家にも良く人が来た。
タバコは吸うしお酒も強い。飲み会とかは大好きだったはずだ。それでも親父は離婚してから一切自分を置いて外に飲みに行くことはなかった。
常々「お前が二十歳になるまでは俺は頑張るからな。」と言っていたが本当に頑張ってくれた。

プライドの塊だから衝突したら後にひけなくなってものすごく大変なこともあったけど、仕事はどんなコンディションでも無遅刻無欠勤を貫いていた。だから父親が休みにパチンコに行こうがなんとも思わなかった。寧ろたまには寝坊しろよとか思ってたくらいだ笑




俺は親父が42の時の子供だ。
だから同級生の父親と比べると老けている。
それでも良くやってくれた。
周りの人も協力してくれた。女友達のお母さんがお母さんの代わりをしてくれることもあった。
今思えば本当に感謝しかないです。



プライドが許さず職が無くなり
生活保護を受けるようになっても
自分はどこかに遊びに行きたい!とかはほとんどなかった。キャッチボールやトランプをしてくれた時は本当に楽しかったし嬉しかったんだ。


めちゃくちゃ貧乏だからそりゃ苦しかったけど(今もか笑)

それでも親父は有言実行で二十歳になるまで育て上げてくれた。親父の良いところと悪いところを本当に受け継いだと思う笑

ただ親父は自分よりもしっかり芯がある人だった。もっと良いところを受け継ぐべきだったな笑

悪いところ 女性運がない ギャンブラー
これは最強に受け継いだ

そこはいらないんだよ笑


でも自分で言うのはなんだけど
とても楽しい優しい人間になったと思う笑


本当にありがとう。


大人になるまで「他の家と比べて自分の家は…」とか思ってたけど、親父だって同じ思いで苦労してたと思う。成人してから俺は親父に親孝行、恩返しできなかった。自分が努力しないからできなかった。やろうとしなかった。
こうなってからは遅いとわかっていたのに俺は逃げ続けてた。最期の最後まで。



もので返すことは何もできなかったな。
気持ちも与えてあげられなかったかもしれない。
でも俺は親父の昔をみんなに誇りに思うと伝えられるよ。
俺を育てた離婚してから約15年くらいが邪魔だったかな?親父の楽しみ亡くなる今まで約20数年邪魔しちゃったかな。本当にごめんなさい。



最後に会ったのは2年以上前なんだけど
その時もあまり変わらないようには見えたけど
家に置いてあったヘルパーさんのファイル見たら
認知症が進行しててなんとも言えない感情だったな。


それから連絡が取れなくなって
少し覚悟はしてたけどまさかね。





俺は本当に不老不死で一生死にたくない。
この現実も受け入れたくない。





でも何度も言うけど「ありがとう」はちゃんと伝えたい。





何回も言ってきたけど最上級のありがとう。

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