『黄昏の岸 暁の天』を読んで思ったこと

十二国記シリーズを読み始めて早1ヶ月。とりあえず泰麒の話を読み進めたくて勢いで『魔性の子』『風の海 迷宮の岸』『黄昏の岸 暁の天』『白銀の墟 玄の月』を読んで、それはそれで楽しめたけれど、登場人物や関係性をあまり整理出来ずに読み進めていたので、2回目として『黄昏の岸 暁の天』を読み終えた。

泰麒が戻ってきてから戴に向けて出発するまでの中で、泰麒のもはや奇跡を施すことが出来ないから自分で出きることをやるために動くというこの勇気(こんな陳腐な言い方しか出来ない自分の語彙力が悲しい)。これが実際に物事(驍宗を、ひいては戴を取り戻すこと)を変えていくために必要不可欠なもので、これにより事態が少しずつ動いていったのだなと今はそんなことを思いながら最新刊を読み直している。

日々を過ごしていくなかで、考えることはするのに実際に動き出すには不安が付きまとうことがある。考えているだけなら、行動することで出てくる危険や困難に遭遇することなんてないのだけれど、得られるものも特段ないように思う。行動するものだけが得られるものなんだと。泰麒だけを追って読んでいたときには気がつかなかったけれど、『図南の翼』『風の万里 黎明の空』でも実際に行動することについて書かれているな。命懸けで泰麒を十二国に戻してくれた李斎や諸国の王と麒麟、そんな人たちの思いもあって泰麒はきっと行動を起こしたのだろうなと。こんな浅はかなことしか今は書けないけれど、行動することで今の現状を何かしら変えていけるのであれば、どんな些細なことでもやり続けていきたいなと、そんなことを思った。

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