歴史の重み:冷戦 その7 ラテンアメリカ経済

検証ポイント4:植民地は本当に「独立」したのか?
番外編:統治経験のない植民地・ラテンアメリカ
輸出主導型成長を目指せ
日本でほとんど語られることがないですが、アジア・アフリカ独立の先輩格にあたるラテンアメリカに触れておきたいと思います。

ラテンアメリカ諸国は、宗主国がナポレオンに敗北するのを見て、急激に独立運動が盛り上がった結果、独立を獲得しました。この時点では確かに、真の意味の独立でした。(但し、先住民はほとんど、ヨーロッパ征服者がもたらした武器か伝染病により死亡してしまいましたので、独立当初からヨーロッパ入植者とその子孫中心の社会でした)

豊かな資源に恵まれていたので、まずは輸出主導型成長を目指しました。主力輸出品といえば、コーヒー、カカオ、綿花、砂糖、スズ/銅、のちに石油などがあります。輸出品を大量生産しようとまずは考えますが、独立時の混乱により多くの資本が引き上げられてしまいました。根源的に資本が足りなければ、金融機関も満足にありません。鉄道を始めとした交通網も不十分であり、エネルギーも不足していました。(石炭時代は、輸入品の石炭に依存していましたが、やがて水力発電が建設され、事態は改善しました)

そこで、何はともあれ先立つものを、と国際金融市場で資金を調達しました。その資本で一次産品を増産し、その利益で他の未成熟な非輸出産業へ投資し、工業化へ向かうという筋書きでした。しかし、当時都市化が進んでいたのは、アルゼンチンのブエノスアイレスくらいで、全体的に労働力不足でしたし、識字率も低く、上記の通り社会インフラストラクチャーが整っていません。よって、そう簡単に未成熟な輸出産業が、成熟するはずもありません。加えて、独立当初、ラテンアメリカ域内で領土拡大戦争が頻発したため、各国は貴重な資源を軍事費にある程度充てなければなりませんでした。

スペイン、ポルトガルからせっかく独立し、その重商主義的貿易(ラテンアメリカは宗主国としか貿易できませんでした)から解放されたのに、「政府の腐敗や運営のまずさ、資本を非生産的な投資に支出したことなどが重なって、国債を発行したほとんどすべての国が1820年代の終わりにはデフォルトの状態にあったのである。」*そして、借金を払えないばかりに、イギリスを始めとする債権国の半植民地的存在に成り下がってしまいました。

「英国の債券所有者はペルー組合を設立し、さまざまな国有企業と引き換えに、未払いの債券を帳消しにした。(中略)キューバ、ドミニカ共和国、ハイチそれにニカラグアには米国自身が侵攻したが、これらの国での最優先課題は常に、迅速な債務返済を確実なものにするために、関税収入を管理することであり、(中略)ニカラグアのような小国の中には、税関に依然として米国の官吏が常駐しており、過去の債務不履行が繰り返されるのを避けるため彼らには関税を徴収する権限が与えられていた。」*

とはいえ、先進国でカネがだぶつけば、高いリスクプレミアム付きの新独立国へも投資が盛んになりました。外国「投資(DFI)の大半は鉄道、公益事業、鉱業、銀行、そして船舶業に向かって流れたが、鉄道、公益事業が圧倒的に重要であった。第一次世界大戦までに米国はカリブ地域の製糖工場と中米のバナナの権益を手に入れ、他方英国資本はアルゼンチンとウルグアイの食肉加工工場に投資」*しました。このように、ラテンアメリカ諸国経済のおいしい部分が、かなり欧米所有となってしまいました。

債務主導型成長を目指せ
しかし、第一次、第二次世界大戦とその復興期に、ヨーロッパの眼がラテンアメリカから逸れた間隙を突いて、アメリカが輸出市場を提供しました。特に第二次世界大戦中、ラテンアメリカは戦災に遭わない原材料(金属とゴム)供給基地と視られ、アメリカは資金提供してくれたおかげもあり、ラテンアメリカ政府は政府支出を拡大しました。そのカネが一部国内工業へ振り向けられ、ヨーロッパ製品の輸入が滞った分の需要を満たす形で、近代化が進むという思いがけないメリットもありました。

とはいえ、戦争が終わってしまえば、アメリカはヨーロッパへ復興支援として資金を流しますし、戦災から復興し始めるアジアやヨーロッパからアメリカへの輸出が増えた分、競争相手の復活によりラテンアメリカ諸国の輸出シェアは下がってしまいます。一方、工業化が進んでしまったがために、中間投入財や機械は輸入するしかありません。そこで一部のラテンアメリカでは、内需拡大政策へと方向転換しました。

もう一つ、大きな変化がありました。20世紀初頭からウルグアイで公共事業の国営化が進められていたのですが、第二次世界大戦末期の国営化の波が起こり、鉄道を始め外国所有であったものをラテンアメリカ自身のものに取り戻したのでした。ブラジルの鉄鉱山、ボリビアのスズ、ベネズエラの石油生産、メキシコの石油精製業等が国営化され、1970年代までには、ほとんど公共事業は外国所有ではなくなったといいます。民間企業よりも政府企業の方が信用は高いですから、企業に必要な資金調達を積極的に行い、国内資本蓄積にかなり貢献したと言われます。

こうした努力も実ったか、「1960年代末までに、内向きの成長を採る諸国では、GDPにおける製造業のシェアは先進国並みの水準にまで上昇した。さらに、鉱業生産の構造は、食品加工品や繊維から、金属利用工業や化学工業へと変化していった。ラテンアメリカの大国(アルゼンチン、ブラジル、メキシコ)は、「準工業国」とのお墨付きを得、また、国内市場が比較的小さなチリやコロンビアも、それに追いつこうとしていた。」*

少しは余裕ができたこともあってか、限界まで搾取したためか、1980年代にはラテンアメリカの多くの軍事政権が倒れ、民主政権へ移行しました。しかし、新政権の船出は様々なショックを立て続けに受けるという、波乱に満ちたものでした。

第一に、軍事政権下で上記国営企業その他政権が借り入れした債務を、主要債権国であるアメリカが、後続政権に継承させたことです。独裁政権では往々にしてありますが、少数の軍事政権中枢の人物が国家債務金額のかなりの部分を私物化し、海外送金していました。「世銀が(アルゼンチン)軍事政権への対外融資350億ドルの行方を調査し、全体の46%に当たる190億ドルが海外に送金されていたことが判明。スイス当局者によって、その大部分が匿名口座に振り込まれていることが確認された。FRB(米国連銀)によれば、1980年1年間でアルゼンチンの債務は90億ドル増大し、同年、アルゼンチン人による海外預金の合計額は67億ドル増加していた。」**

第二に、第二次石油危機により、先進国は金融引き締め政策に走り、世界利子率は非常に高い水準となってしまいました。半分返す意志のない借金があるのに加え、国内で寡占かつ保護された状態で育成された工業製品は、その非効率さ故に高価格で、国際市場では歯が立ちません。輸出収入に対する債務返済額の比率が1982年には59%と、債務主導型成長は持続不可能となり、輸出収入はやはり一次産品に依存せざるを得ないのでした。

第三に、頼みの綱である一次産品の国際価格下落です。「IMFによれば、発展途上国は1981年から83年までの間に25の価格ショック(10%以上の下落)を経験し、債務ショック真っただ中の1984年から87年までの間には140の価格ショックを経験、これによりさらに債務が膨らんだ。」**

最後に、経済力低下が招く通貨ショックです。「例えばコーヒー価格が突然下落すれば、その国の経済はたちまち不況に陥り、為替トレーダーはそれに反応してその国の通貨が下がる方に賭けるから、ますます通貨は下落し、経済は一層悪化する」。**

こうなってしまっては、メキシコの「経常収支の赤字は対GDP比で、危険な水準にまで達した。(中略)1994年には資本逃避が危険な水準に達し、同年末の大規模な自国通貨の為替レート切り下げは、いわゆるテキーラショックをもたらし」*、ラテンアメリカ全体に波及してしまいました。

シカゴ・ボーイズと民営化
そこで、IMFや世界銀行が中心となり、いわゆるワシントン・コンセンサスをラテンアメリカ政府に押し付けようとしました。すなわち、IMFや世界銀行の「指導」に従う代わりに、債権セカンダリー(流通)市場経由で借金をある程度借り換える仕組みです。ここでいうIMFや世界銀行の「指導」とは、「国際収支政策(実質為替レート、貿易自由化、対外直接投資)、財政政策(財政節度、公共投資、税制改革)、競争政策(民営化、規制緩和、財産所有権)といった諸政策の改革、金融の自由化」*です。しかも、「ショック療法」的に短期間での実行を求めたのです。この短期間というのがポイントで、新政権が経済についてよく分からないうちに、国民が政策に伴う痛みを理解し、反対する前に実施すべきであるということです。

このショック療法の基礎を編み出したシカゴ学派の元祖・フリードマン教授やIMF、世銀に当時数多くいた彼の弟子(シカゴ・ボーイズ)が何と言い繕おうと、アメリカがこのような要求をする理由はただ一つ、国営化された国家企業や財産を「民営化」という美名の下にフリーマーケットに引きずり出し、欧米企業が破格の価格で買いたたく下心です。

しかし、このような大規模な失業を伴う経済改革を一気に進めたら、社会不安、暴動が起き、自らの政権が維持できるか分かりません。そこで、「多くの国は、債務返済に必要となる外貨を得るために、単純に通貨を増発した。」*結果として当然生じるハイパーインフレを作ったうえで、その処方箋と称してワシントン・コンセンサスという「麻酔のない大手術」**を国民に強要したのでした。

例えばボリビアでは、「ボリビア大統領の就任したサンチェス・デ・ロサーダは、1990年半ばに石油、航空、鉄道、電気、電話などの国営企業を売却。(中略)ボリビアの「大特売」で得をしたのはエンロン、ロイヤル・ダッチ・シェル、アモコ(現ブリティッシュ・ペトロリアム社)、シティコープといった外国企業だった。(中略。同じ時期アルゼンチンの)メネム大統領は、油田、電話、航空、空港、鉄道、道路、水道、銀行、ブエノスアイレス動物園、さらには郵便局や年金制度に至るまで、国営企業を片っ端から規模縮小し、売却した。」**

その一方で、「組合活動家を拘禁して改革に対する抵抗運動を阻み、それによって労働者部門全体を経済的に抹消する道を開くということだ。やがて労働者の職は失われ、彼らはラパス周辺のスラム街に倉庫の荷物よろしく押し込められた。」**

しかし、このように無辜の民を虐げ続けたら、どんな政権も持続不可能です。ボリビアでは、「民営化を請け負ったベクテル社が水道料金を3倍に引き上げたことによる「水の戦争」に始まり、ワーキングプアに税金を課して財政不足を補うというIMF主導の政策に対する「税金戦争」、さらに天然ガスをアメリカに輸出する計画に対して起きた「ガス戦争」と続く。」**最終的には、国民の怒りの前に屈し、民営化を進めたロサーダ大統領は、アメリカに亡命せざるを得ませんでした。

草の根の意外な抵抗法
こうした欧米企業とラテンアメリカ諸国政府周辺の富裕層間の戦いの足元では、長らく著しい所得格差が続いています。植民地時代から、大地主とその他とで所得格差が大きくありました。国内に枯渇し、その流通の担い手(金融機関)のいない状況下で、大地主は資本提供者として(資本家)としてのチャンスが与えられました。加えて、独立当初の絶え間ない域内戦争のため、「通常、大土地所有の権益の結びついた少数のエリートが、域内を通して政治および経済的な影響力を行使し続けたのである。」*

それでも、輸出主導型経済において輸出品が労働集約型で、かつ労働者が不足していた時期には地位向上の見込みがありましたが、資本家には賃上げする意欲はほとんどありませんでした。その後内需拡大政策を選んだ頃には、都市化も進み、労働組合が誕生し、大衆的な政党政治が興隆するタイミングがありました。しかし、同時にラテンアメリカ全体で労働力が過剰となり、「労働市場は強制労働に基づいていた」*と専門家に言わしめる状態でした。

こうした背景から、1970年代からアメリカへ出稼ぎに行くラテンアメリカ人が後を絶たず、約20年後のアメリカでは、ヒスパニック系比率の増大により、白人が単独過半数ではなくなる見込みです。トランプ氏がいうように、メキシコとの国境で壁を作れば済むような話では、ないのです。西半球全体で考えるべき課題なのです。

*ビクター・バルマー=トーマス著 「ラテンアメリカ経済史」
**ナオミ・クライン著 「ショック・ドクトリン」


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