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児童養護施設の暮らしは社会の可用性を担う共同体づくり②

どうもこんにちは。ゆきちかさん、という名前でnoteを書いています。
児童養護施設の心理職として働いています。
本noteの目的は、“児童養護施設”の検索結果をよりグラデーション豊かにする、というものです。

 前回に引き続き、佐々木俊尚著「そして、暮らしは共同体になる」(アノニマスタジオ)を児童養護施設職員の視点から読解していこうと思います。

可用性:一つの道が閉ざされた時、代替がきくかどうか

 私は児童養護施設の心理職として働いています。子どもと一対一の相談をしたり、子どもと関わる大人と相談したりしています。
 仕事の大筋としては、成長や回復の土台となる、子どもと大人の安定的な関係を築くことをお手伝いする、という感じでしょうか。

 一般的に見る「親子間の“強く、狭く、深い”結びつき」を施設の中の関係性において代替する、という趣旨を読み取ることができます。

 家庭が子どもにとって「子どもの成長が阻害される」「マイナスの影響が大きすぎる」「安全な場所ではなく、危険な場所」となったとき、「安全で安心できる場所での成長」という、より一般的な意味での成長の道筋は閉ざされてしまいます

 そんな時、その家庭よりは安全で、安心を保証できる場に生活拠点を移動すると、家庭とは別の道筋で「安全で安心できる場所での成長」を歩むことができる…。
 と、このように、一つの道がダメになっても、別の道に繋がることができることで全体のシステム(この場合は子どもの人生と成長)が保たれる可能性が残されます。

 このような性質を本書では“可用性”という言葉で説明しています。可用性(かようせい。アベイラビリティ。いつでも得られること)というこの言葉は、元々はコンピュータ業界で使われていた用語のようです。

 たくさんの道が分散していることにより、一つの道が途絶えてもシステムがダウンしにくい状態は“可用性が高い”、逆に、道が少ないために一つの部分障害がシステムの破綻を招きうるような状態は“可用性が低い”という表現になります。

現代の一般家庭は子どもの成長に対する可用性が低い

 考えてみましょう。今で言う“一般家庭”は核家族です。お父さんとお母さんと子ども、というのが基本構成です。
 戦後から高度経済成長という時代において、国の経済の立て直しに有効な仕組みとして機能しましたが、ご近所さんや同じ屋根の下に住む親類と一緒に子どもを見ていく、という関係性の多くは分断されました。
 特定の人同士による強い影響関係から個人を解放する方向にも作用しましたが、子育てという作業については、父母、特に母親に背負わされることになりました。「子どものすることは親の責任」だとか「親の育て方が子どもの将来を決める」といった言葉によって、今の子育ては「ミスれない」ものとして捉えられていると思います。社会的なプレッシャーを受けながらつくる親子関係は、自然と強さ、狭さ、深さを極めていくこととなります。

 現代において親子関係が破綻する事態は様々に考えられますが、いずれに場合も、親が提供する環境下で生きる子どもにとっては、衣食住、安全の確保、安心感の補給といったニーズが断たれる事態に繋がっていきます。また、関係が分断されないまま続くことにより、偏りや歪さを持った関係が後に長く続く影響をもたらす場合も多々あります。
 これは一つの関係性によってもたらされる状態が、子どもの人生を破綻させてしまうほど影響力を持ってしまうという“可用性の低さ”の問題と読み換えることができると思います。
 親子関係がその後の人生を大きく左右しすぎる。当たり前のように聞こえるかもしれませんが、今後作られていく社会を想定した場合には、親子関係以外に子どもの育ちを支えられる仕組みを整えていく必要があるわけですね。

“強く、狭く、深い”なら施設も里親もリスクは同じ

 親子の関係が壊れても、別の誰かが安全や安心を補填する役割を果たしていた、というのはよく耳にする話だと思います。学校の先生だったり、友達だったり、スーパーで働く気立ての良い店員さんだったり、病院の先生だったり、誰でもそのような存在になり得ます。

 その中でも衣食住を提供でき、安心と安全に具体的な取り組みを提供できる施設や里親さんは可用性を高める力がある存在と言えます。親の代わりに養育の責任者として行動できることが他の立場にはない大きな特長です。

 しかし、親子関係と同じ水準、もしくは親子より深い関係性を築こうとするとどうでしょう。私は、施設職員や里親さんが親子と同等以上の強い影響関係を持とうとすると、そこには再び可用性の低さの問題が絡んでくると思っています。

 よく耳にするのは、「頼れる家族がいないのだから、私(たち、施設)が何とかしないと」というものです。これには「それ専門でやってるわけだから、できなかったとか言えない」という思いも含まれているかもしれませんが、だとしたら更に強い思いになります。

 具体的には、何か問題を起こした子どもに相対したその瞬間、子どもの将来の可能性を見通し、「今、この場でどうにかしないと」という強い動機を引き起こします。結果的に起こり得るのは、入所した子どもが親子関係において経験してきたものと同じことです。養育を委託された場所でそのような不都合が生じた場合、大人の側が責任追及を受けることはともかくとして、子どもの方は再び別の道筋を探さなければならなくなります。単純に、「こっちがダメなら次はあっちだ」と試行錯誤することが「良いこと」として扱われるのなら問題はないのですが、「一般家庭に近づけないこの子にも要因がある」と定住できないことを悪いこととして見られてしまうため、このようなケースの多くは難しいケースとして見られる傾向があります。残念なことに、子ども本人も「普通の家庭生活ができないこと」を悪い特徴として原因を自分自身に位置付けてしまう場合が多いと思います。

 ちょっと重めな話が続いてしまいました…。

 長くなってきたので再び「次回へ続く!」ということにしたいと思います。読み返すと全然本書のゆるやかさも出てないし、書きたかった「ゆるやかにつながる話」にもたどり着けませんでしたが、とりあえず今日の着地点はこれです。

 可用性の観点から見て、児童養護施設が挑む課題は、強く深い情愛に満たされた、“一般家庭”とか“親子関係”というお手本に近づこう、という道筋だけでは解決できない。です!

 次回こそ「ゆるやかにつながること」に話を繋げたいと思います。子どもが特定多数の大人とゆるやかに繋がり、一つ一つの関係性が強くなくても、全体として子どもの安心と安全を必要分提供する世界。そんな話をしたいと思います。どうもありがとうございました。次回もどうぞよろしくお願いします。

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!