大学に行く意味、「勉強」ではないのでは?

どうして大学に行くのか。それは自分に「保険」をかけるためだと思う。

この考えに反論する人も少なくないだろう。「勉強するため」「より深く学べる環境を得るため」これが一般に言われている理由である。私も実際そう考えながら大学に通っていたが、薄々感じてきたことがあった。

それは、本当に自分の学びたいことに集中したいのならば大学に通う必要がないということである。専門的な資料だったら図書館なりインターネットで手に入るし、SNS上で同じ疑問を持つ人と議論することだってできる。今挙げた例はかなり暴論である。だが卒業のために興味のないものを無理矢理やらされたり、やる気のない友人に影響されたりするなど、大学に通うデメリットは少なくないのではないか。

それでも私は、大学に行くべきだと考えている。その理由が冒頭にも述べた「自分への保険」だ。

例を挙げてみよう。(※自力で生活費を工面しているという方はしばらく読み飛ばしてください)

もし御両親(生活の面倒を見てくれている人)に対して「4年間でやりたいことがあるから生活費を援助してください。大学や専門学校には通わず、自力で勉強します」と言って資金援助をしてくれるだろうか。

少なくとも私の親に言ったら返事代わりに往復ビンタが頂ける(あくまでも比喩です)。もう少し穏便な返事でも、「家賃はいいから、食費はいくらか家に納めてね」あたりが妥当だろう。それはそうだ。どんなに崇高な目標を掲げたところで、何か学校に通うか仕事をしていない限り「ニート」には変わりないのだから。

仮に資金問題が解決したとして、問題は残る。「やりたいことができなかったときどうするか」というものだ。

学びたいことに向かって真っ直ぐに突き進める人だったらいい。しかし(少なくとも私は)沢山ある自由な時間を持て余し、無駄にしてしまわないとは言い切れない。そうなったときに残るのは、4年間何の成長もしなかったニートのみである。

その点において、大学生は気楽だ。学校の勉強やらバイトやサークル、(人によっては)一人暮らしに追われて大変だが、大学に通っていれば、いや生きてさえいれば一応「大学生」という身分がある。更に頑張って卒業すれば「大卒」の肩書までもらえるのだ。(「大卒」のみに価値があるかは分からないが、少なくとも何もないよりはマシだと思っている)

最低で4年間の身分保証をしてくれる保険。それが私なりに考えた大学の価値であり、行く意味である。もし春から大学生の方がいらっしゃれば、声を大にして言いたい。

「自分に素直になって、学びたいことは自分でどんどん学んで。大学生という肩書が骨を拾ってくれる」

学校にも仕事にも通っていない私が悠々自適な生活を許されているのも、一応「大学生」という身分がある(休学中だが)からだろう。それでもやっていることはニートと変わらないし、やはり世間の目は怖い。

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