とはずがたり その1 ~自由奔放な女性・後深草院二条が語る乱れた宮廷事情〜

「とはずがたり」という女流日記をご存じの方は少ないかもしれません。
源氏物語や枕草子ほどの知名度はなく、かなりマニアックな作品です。
それもそのはず、とはずがたりは鎌倉時代の女流日記ですが、発見されたのが1940年とかなり最近だからです。

私がnoteを始めたのは、この作品を語りたかったからです。
その理由はただ一つ、とにかくエロいから。
この時代の宮廷事情は乱れに乱れきっており、最高にエッロいのです。

これから、この「とはずがたり」という素晴らしい作品をご紹介していきたいと思います。
これを読めば、あまりのエロさに、とはずがたりを買いに書店に走ってしまうでしょう!

◆とはずがたりの時代背景を追う

とはずがたりとはどんな作品なのかを見ていく前に、とはずがたりが生まれた時代背景をご説明させてください。
少々退屈かもしれませんが、お付き合いくださいませ。

◆◆鎌倉時代の天皇は政治的権力を持たなかった◆◆
とはずがたりは、今から七百年ほど前、鎌倉時代に「後深草院二条」という女性が書いた女流日記です。
1271年から1306年ころまでの鎌倉時代末期に書かれたと言われています。

後深草院二条は、後深草天皇が退位後、院になってから仕えた女性です。
彼女は、後深草院だけでなく、さまざまな男性との奔放な男女関係や政治的な動きまで、鋭い筆致で描き出します。

日本では平安時代までは天皇が活躍しており、律令を定めたり国司を任命したりと、藤原氏などに寄生されながらも天皇が国を治めていました。
ところが、武士の時代になると、次第に天皇の影響力が衰えていきます。
鎌倉幕府が開かれると政治の実権は武家に移り、天皇はただのお飾りになってしまうのです。

みなさんは日本の歴史を学んだときに、飛鳥時代→平安時代→鎌倉時代→室町時代→戦国時代→江戸時代→・・・などと習ったと思います。
平安時代頃までは天皇の名前がよく出てきましたが、鎌倉時代以降はさっぱり出てきませんよね。
ですが、もちろん、その間も天皇の歴史は綿々と続いています。
ちなみに、天照大神の子孫である初代神武天皇から数えると、令和の今上天皇は126代目に当たります。

つまり、とはずがたりの時代の天皇は、歴史の表舞台から消えてしまった、政治的実権を何ら持たない天皇だったのです。

この時代の天皇や公家たちは、何をするにも鎌倉幕府のお伺いを立てなければなりませんでした。
何か政策を決めるのも、天皇が退位するのも女御を入内させるのも東宮を決めるのも、必ず鎌倉幕府の意向に従います。
そのため、この時代の宮廷は政治的役目を失い、次第に乱れた空気が漂い始めます。

このとき、公家側で鎌倉幕府と朝廷の間を取り持つ役目を担っていたのが、「関東申次」の西園寺家でした。
この西園寺家の御曹司「西園寺実兼」という人物が、後にとはずがたりで重要な役で登場するので、覚えておいてくださいね!

◆◆後深草天皇の憂鬱◆◆
後深草天皇は後嵯峨天皇の皇子です。
後深草帝は生まれながらにして四肢に障害を持ち、体が歪んでいたと言われます。
そのためか、父帝や母大宮院は、兄の後深草天皇よりも、次に帝位を継いだ弟の亀山天皇の方を愛していたそうです。

後深草天皇は早くに退位させられ弟に帝位を譲り、父母の愛情までも弟に取られ、鬱々とした気持ちを抱えたまま上皇になります。
この後深草帝の陰鬱とした気持ちが、後々とはずがたりに大きな影響を及ぼすことになります。

ところで、日本の歴史の中で、二つの朝廷が存在する「南北朝時代」という時代がありました。
この南北朝を生む最初のきっかけになったのが、後深草帝と亀山帝兄弟の軋轢です。

系図_後深草亀山以後

年の変わらない兄弟が相次いで帝位を継ぐことになり、政治的な対立が生まれます。
そのため、これ以降は、後深草帝の系統と亀山帝の系統が交互に帝位につくことにしようと取り決められます。
これが、「両統迭立(りょうとうてつりつ)」です。
後深草帝の系統は「持明院統」として北朝に、亀山帝の系統は「大覚寺統」として南朝に、それぞれ繋がっていくのです。

◆後深草院二条とはどんな女性?


次に、我らが後深草院二条という女性は、どんな女性だったのかを見ていきましょう。

◆◆村上源氏の流れをくむ久我家の娘◆◆
平安時代の村上天皇の皇子、具平親王の子孫が源氏の姓を賜って臣籍に下りました。
その子孫が、村上源氏です。
ちなみに、村上天皇の4代後の一条天皇の時代に、源氏物語が生まれました。

村上源氏の子孫は枝分かれし、その中に久我家が出ます。
久我家は現代にも末裔がおり、昭和初期に活躍した女優の久我美子さんは久我家の末裔の一人だそうです。

その村上源氏の流れをくむ久我雅忠の娘が、とはずがたりの作者の後深草院二条です。

◆◆後深草院二条が後深草院に仕えた経緯◆◆
久我雅忠の娘の二条が後深草院に仕えた経緯は、とても単純です。
雅忠の妻、つまり、二条の母が女房として院に仕えていたからです。

前にもお話ししましたが、当時、高貴な若殿に仕えた女房は、自ら若殿の性教育係となりました。
つまり、後深草院は若かりし頃、雅忠の妻を頂いちゃってたんですね。
雅忠の妻は、二条がまだ幼いころに亡くなってしまいました。

ですが、院はどうやら雅忠の妻に惚れていたようです。
雅忠は大納言という、そこそこ位の高い貴族でしたから、無理やり奪うことも難しかったのでしょう。
そこで、院は雅忠に、「娘が大きくなったら、ぼくに頂戴ね」と言ったのです。

院が雅忠に酒を注ぎながら言った部分の、とはずがたりの描写を引用します。

「この春よりは、たのむの雁もわが方によ」
<春になったら、信頼して娘を私に預けなさい>

「伊勢物語」という当時もよく知られた物語の古歌にある「たのむの雁」という言葉を使って、優美に語り掛けています。
とはいえ、権力を行使して父親に娘を売らせたわけなので、ちっとも優美ではありませんがね。

◆こうして二条は院に処女を奪われる・・・


では、二条の初めてが後深草院に奪われる場面を見てみましょう。

「今宵はうたて情けなくのみあたり給ひて、薄き衣はいたくほころびてけるにや、残る方なくなりゆくにも・・・」
<院は今宵はひどく思いやりなくお振舞いになり、私の最後に身を包んでいた薄い衣もひどくほころびてしまったのか、残るところなくなってしまうにつけても・・・>

14歳くらいの処女の二条が、大人の男にびりびりに服を破かれて、ひどく乱暴に扱われ、まとっていた最後の薄衣が残りなくはぎとられてしまいます。
思わず「ゴクッ」と喉を鳴らしてしまいそうです。

◆まとめ

とはずがたりの時代背景や登場人物、そして、物語冒頭の後深草院二条が後深草院に犯される描写を見てきました。

この後、二条は後深草院の都合のいい女として大変軽く扱われ、乱れきった宮廷に飲み込まれていきます。
しかし、二条は賢くしたたかな女性です。
ただ飲まれていくのではなく、持ち前の才覚と度胸で多くの男を渡り歩き、強くたくましく生きていきます。
そんな、素晴らしい後深草院二条の物語を、今後も見ていきたいと思います!