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命が生まれるまで

2020年9月9日、僕等の下に元気な女の子が産まれた。
けれど、ここに至るまでにはそう簡単な道のりではなかった。
結果的にこの娘が生まれてきてくれたのだから、僕等は運が良い方なのかもしれない。
しかし、自分たちが実際に経験して初めて命が生まれることが奇跡なのだということを実感した。

SNSが普及して比較的「知ること」が容易になった今の時代ですらも、このようなことはセンシティブな内容なので知人・友人が気楽に話題にできることではない。
だからこそ妻と話し合い同じようなことで悩んでいる人、困っている人のために、一つの体験談として書き留めておく。
願わくば誰か一人でも心を軽くすることに役立てば幸いである。

僕等は「不育」で3度の稽留流産を経験し、今に至る。

なお僕は男なので、実際に腹を痛めたわけではない。実際に辛い手術を経験し、そして実際に子供を宿した妻の「パートナーとしての視点」でこれを記す。

【Ⅰ】妊活の開始

交際時も比較的仲の良かったので、結婚しても少しは二人の時間を大切にしたい。
そんな気持ちから1年間は子供のことを考えないでいた。
もちろん子供を儲けることへの経済的な不安は皆無だったといえば嘘になる。
だからこそ腹を括るまではしばらく二人だけの生活をしようと考えていた。
なにより実際に肉体的負担は妻に強いることになるので、妻の気持ちが固まるまではと考えていた。

そしてちょうど一年経つか経たないかの時期に突然妻が
「そろそろ子供欲しい」
とあっけらかんと放った。
あまりに突然の決心だったので少し驚いたのを覚えている。
ただ同世代の友人が結婚したり子供を産んだりと、嬉しいニュースが増えていった。
人生の中でも良い時期かもしれないと
そうと決まればと僕の気持ちも固まった。

こうして僕等の、予想だにしなかった長い戦いが始まったのである。


【Ⅱ】1度目、初めての稽留流産


周りでも「なかなか子供ができない」という話を聞いたこともあった。
自分たちが思っている以上に命は簡単にできるものではない、長い戦いになるかもしれないと覚悟し少し身構えていた。

ところがそんな覚悟をよそに、まさかたった一回の挑戦で、妊娠検査薬は陽性を示した。
唐突な展開に呆気にとられ、嬉しいと思うことを忘れていた。
そうか親になるのか、と実感は湧かないがふつふつと何か込み上げるものがあった。

妻も何より喜んでおり、ウキウキと産婦人科に向かった。
ただまだ少し時期が早かったのか心拍確認に至らず、2度目の受診で確認ができた。
今思えばいろいろ喜びのあまり先走っていたのかもしれない。
僕も僕で、会社の上司とは仲の良いお付き合いをしており、育休を取るという気持ちもあり、この段階で妻の妊娠を上司に報告してしまった。

3度目の受診をした妻から、直後に電話がかかってきた。
心拍が確認できなくなったというものだった。
稽留流産である。
電話口の妻は今まで聞いたことないくらいの寂しげな声だった。
いつも滅多なことでは落ち込むことのない妻だからこそ、そのトーンにことの重大さを自覚した。
もちろん受精卵と呼ぶのもいいところの段階だから、まだ幸いなのかもしれないが、それでも腹に命が宿ったのに喪失した。
そんな気持ちはおそらく男の僕には計り知れない痛みなのだろうと感じた。

しかし過去に母や義母、その友人たちの「初産時の一度や二度の流産はそう珍しいことでもない」という言葉を思い出し、妻も少し吹っ切れたようだった。

辛かったのはその後である。

実はこの心拍確認ができなくなったその日、僕等は受診の後にピアノの連弾をする発表会に出演する予定だった。
流産手術の日程も後日に決め、それまで特に必要な処置もなく、肉体的な負荷はそこまでなかったため妻の希望によりそのまま出演することにした。
もちろんその発表会では流産のことはもちろん妊娠のことも、妻の希望もありあまり話さないでいた。
しかし間が悪いことに、その発表会では先日赤ちゃんを産んだばかりのお弟子さんが久々に来たのである。
場はその赤ちゃんを愛でる雰囲気に包まれた。

誰も悪くない、だけどどうしようもないこの状況。
居た堪れないとはこういうことなのだと。
何より妻のためにも何もできない状態が歯痒くて仕方がなかった。

【Ⅲ】2度目


無事流産手術を済ますことができた。
妻曰く初めて全身麻酔を体験し、驚くほどあっという間に意識は落ち、気づいていたら終わっていたという。
喪失の痛みとは裏腹に、あっという間の結末であった。

手術の後は3ヶ月は様子見の期間を持つ必要があり、しばらく妊活はストップとなった。
その間に気持ちも次のチャレンジに向け前向きになり、万全の状態になってから再度挑戦が始まった。

ところが今度は着床までが長かった。
前回が一度で成功してしまったがためにこの期間は余計に長く感じた。
排卵日管理アプリを駆使しつつ、綿密にスケジュールを練ったがなかなかうまくいかない。
妊活のためにお互い負担をかけすぎないようにと前もって話し合っていはいても、この状況にイライラや焦りが募った。
気づけば半年近くの時間が経過し、これはいよいよと不妊の治療を受けることにした。
試行錯誤の上、やっと妊娠検査薬は陽性になった。

しかし今度はさらに早くに悲しい結果を聞かされた。
胎嚢はできているのに中の赤ちゃんがなくなっている。
前回とはまた違った状況の稽留流産だった。

「一度や二度」、その言葉を信じて何とか気持ちを立て直しつつ、そして次こそはと希望をつなげ二度目の流産手術に臨んだ。
退院時、僕は付き添うことができ、医師から状況説明を受けた。
除去した胎児で絨毛検査を受けることで流産の原因を調べることができる、という選択肢だった。
手術前に妻も確認されたらしいが、費用が多少嵩むことと「一度や二度」は珍しいことではないという気持ちから検査をしない選択をした。

もしここで違う選択をしていたら、僕等の戦いは少し短くなったかもしれないと、後になって知ることになる。

【Ⅳ】3度目


二度目の手術後今回は母胎の安全を考慮し少し長め、半年間の様子見期間を言い渡された。
そしてそこからまたしても少し長い期間の妊活を経て、三度目の妊娠検査薬陽性となった。

「一度や二度の流産はそう珍しいことでもない」。ならば次こそはと淡い期待はあったのだが、どうしても過去2回のことが頭をよぎり僕等は少しネガティブになっていた。
なので妻の気持ちが少しでも落ち着けばと今回の心拍確認の受診は二人で行った。

1度目は心拍はあるがまだ微弱だった。
後日もう一度診る必要があると言われたので、日を改め2度目の心拍確認をしに行った。
診察を終え出てきた妻の、口はうっすら笑みを湛えていたが、目は全く笑ってなかった。
待合室の僕の隣に来て、そっと僕の膝に「×」を指で書いた。
その時の妻の顔と、そして産婦人科を出た直後に泣き始めた妻の顔を、僕は多分一生忘れないだろう。

「なんで私だけこうなるの?」
ダメだ、妻の心が完全に折れてしまったと思った。

もちろん流産自体も辛く悲しいことではあるのだが本当に妻が辛かったのは
「周りが当たり前のようにできている妊娠が、なぜ自分はできないのか」という責めだった。
考えてみれば最も身近な自分の親ですら、当然ながら無事に子を宿し産んでいる。
友人たちも人によっては第二子を産む人もいる。
なまじ勉強も、生活も、就職も周りが普通にやることは普通にできていた妻にとって、それが受け入れ難かったようだ。

もちろん不妊、不育で悩む人の例や話は比較的手に入りやすい。
しかし身近にいない場合、やっぱり自分が特殊なのだという気持ちに陥ってしまうのだと思う。


【Ⅴ】絨毛検査


三度目の手術の時、藁にもすがる気持ちで絨毛検査を受けることにした。
正式には流産絨毛染色体検査。
簡単にいえば流産が染色体/遺伝子的な疾患によるものか、それ以外の要因なのかを調べるものである。
「一度や二度」ありえる一般的な稽留流産は受精卵内の染色体か遺伝子に疾患があり起こるもので、こればかりは運という他はない。
今回検査してみて、この疾患が見つかれば「不運が重なった」ということになり言い換えれば「打つ手は特にない」ということになる。

しかし検査を受けて今回の流産は、染色体異常も遺伝子疾患も見当たらなかった。
つまり「他に原因がある」ということがわかったのである。
光明が見えた。
これを突き止めればまだ子供を授かる機会はまだあるかもしれないということなのだ。

そしてもう一つ医師が教えてくれたのは、今回流れてしまった子は男の子だったということだ。
それが改めて「あぁ僕達の子供だったんだなぁ」と意識させてくれた。
切なくもあったが、次こそはもう一度この世に出させてあげたい、そう強く決意した。

【Ⅵ】不育治療を経て


三度の流産と、絨毛検査の結果から間違いなく僕等は「不育」だということがわかった。
そこで先の三度目の手術を担当してくれた医師の薦めもあり、新横浜の不育専門のクリニックにかかることになった。
この機関はかなり不育の研究をしており実績もかなりあるということもあり、決して費用は安いわけではないがそこを信じることにした。

血液検査の結果、明らかに数値に異常値があることがわかった。プロテインS活性、プロテインS抗原量なる項目が原因であることが突き止められた。
これを平たくいうと、体質的に血液が(日常生活には支障ないレベルで)凝固しやすいため胎児に血液があまり送られず栄養不足になり育たないということらしい。
ということは血液を溶解しやすくする投薬で解決の目処が見えた。
結果バイアスピリンという薬を服用することで改善が見込めるのであると教わった。

なおバイアスピリンは医療機関によっては処方してくれないこともあるので、妊娠するまではこのクリニックで処方してもらい、妊娠後は分娩予定の病院でちゃんと処方してもらえるか確認する必要があるらしい。

バイアスピリン処方から3ヶ月後、妊娠が分かった。
この時にはもう妊娠で喜べなくなっていた。
また時間経てばダメになるんじゃないか、いつダメになるとわかるのか、検診の前はずっと怖かった。
そして2020年2月、無事心拍が確認でき経過が良好なことがわかり、その後も順調に育っていった。

世間ではコロナウィルスの世界的な流行もありかなり心配事はあったが、そんなことはよそにすくすくと胎児は健康に育っていった。

そして2020年9月9日、無事女児は産まれた。
僕等の3年間に及ぶ戦いは幕を閉じたのである。

【Ⅶ】結び


不育、不妊で一番辛いのは「時間が無駄に過ぎてしまう」と考えてしまうことだ。
家族計画というと簡単になってしまうが、それが大きく崩れてしまう。妊娠するまで、そして流産後の手術とその経過観察期間、もちろん女性の周期、様々な時間を取られ人生が思うようにいかない。

僕等も楽観的に結婚後と子供のことを考えていたが故に、3年間も時間が経ってしまった。

改めて思うのは、「その時その時に使えることはすぐ利用すべき」ということと「可能な限り原因特定は努力すべき」ということだ。
やはり命というのは授かり物なわけでそう簡単にうまくいかない原因はわからないものだ。
だけど万が一でも原因を突き止められるなら調べるべきなのかもしれない。

もう少し早く不妊治療を試してみたら、絨毛検査を早くに受けていたらこんなに長引くことは、もしかしたらなかったかもしれない。

「打つ手があるのならば早めに講じる」。
家族計画をしっかり考えている人であるならば、僕はこれを強く薦めたいと思う。

そしてもう一つ、僕が強く感じたのは命に関して男はあまりに無力だということ。
結局腹を痛めるのは女性でしかない。
そして喪失の苦しみは計り知れない。
男は無力なんだということを常に頭に置きながら、妻を/母を支えていかなければならないと改めて思った。

命を授かることは奇跡であり、絶対にうまくいく方法は無い。
その人、そのケース毎に状況や対処法が変われば、結末も変わる。

僕たちのケースがそっくりそのまま当てはまることはないかもしれないが、もし今苦しんでいる人がいるのならば、「他にも似たような人が居たんだ」と安心の材料になってくれればいい。
そして検査なり受診なり、「打つ手があるなら早めに講じる」事に賛同してくれるのであれば尚幸いである。

昨今は不育も助成金が設置されるなど、不妊同様に認知度が上がってきた。
裏を返せばそれだけ不育で悩んでいる人は多いという事だ。

「あなただけ」がおかしいんじゃない。
どうか心を強く、頑張り過ぎず、生きてほしい。

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