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湧別のりんご おぼえがき その1
旭りんご 食べたい~
旭(という品種の)りんご食べたい。
小ぶりで、酸味があって、ほどよいかたさのりんごを、まるかじりしたい~
そんなささやかな願いでも、今は叶えるのは難しい。
だって、その三拍子揃ったりんご、なかなかみつからないんですもん。
最近になって、北見の旭りんごがじわり有名になってきたので、それは嬉しい。
で~も~ね~、わすれちゃあ~ならない ???
かつては、更に北、上湧別町(いまの湧別町上湧別地区)でも旭をはじめとするりんごがたくさん栽培され、ちょっとは知れた産地だったということを。
「徳弘正輝(とくひろ まさてる)さんの庭に、りんごの木が数本うえてあり、実をつけていた」
明治27年湧別に入植した方の話です。
また、明治30年ころに入植した屯田兵も、
「相当な太さのりんご(の木)が、新しい実をつけていた」
と話していたそうです。
湧別町の歴史を語るうえで、徳弘さんという人物名や屯田兵とかいう語句は避けられませんが、ここではリンゴうんちくがメインなので、
湧別にはじめて入植したのが徳広さん、その後来て頑張って開拓した団体が屯田兵、屯田兵が作った村が兵村……くらいの認識で読んでくれたら幸いです。
なお、参考文献の町史等は図書館にあります。
初代四中隊長の官舎の庭にもりんごの木が植えられていて、それは根室の和田村から持参して移植したものだといわれています。
後日、このりんごの木はとある屯田兵の畑に移植されました。その息子さんの話では、「初笑」という品種だったそうです。
明治31年~33年 兵村のほぼ全戸の庭先にりんごの苗が植えられる
明治31年にりんごをはじめ、さくらんぼ、杏、ぐすべり、いちごなどの苗木を買って移植、育てていた方もいたようです。
明治33年 りんごの苗木が各戸に配布
明治34年の、とある地区の報告では、35戸で果樹2830本も植えられていたとか。うち、りんごはどの程度だったのかはわかりませんが、相当な数だったのでしょうね。
その頃の品種は
紅魁(べにさきがけ)、倭錦(やまとにしき)、鶴の卵(俗称 33号)など
りんごを食べて出発
明治37年、早生りんごを食べて、屯田兵は日露戦争に出発しました。
以上。エピソードまで。
介殻虫対策に、官民一致の大運動
明治40年頃の品種は、
紅絞(べにしぼり)、紅魁(前出)、紅玉、国光(こっこう)
明治41年、介殻虫という害虫が大発生。官民あげて対策を行いました。
同年の生産高は、りんご 2,412貫(約9,045kg)
この収穫量が多いのか少ないのかは専門家の判断にまかせたいw
また、村農会はりんご苗木を1,400本配布。
「頑張って🍎つくるべ~」ということだったのでしょう
このとき配った品種は
紅玉、柳玉(リウギョク)、国光、祝、旭、鳳凰卵(ほうおうらん)
やっと出てきました、「旭」の名前~♡♡♡
苗木の配布は大正元年にも行われましたが、内容は(その2)にて。
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