惨敗しながらもクラシック三冠を皆勤した馬たち 〜サムソンビッグに想いを寄せて〜


競馬において最もアツいものといえば、皐月賞・東京優駿・菊花賞、そう、3歳馬によって行われるクラシック三冠競走だ。シンボリルドルフ、ディープインパクトに続いて無敗の三冠馬コントレイルが誕生したことも記憶に新しい。
そんなクラシックレースは、たとえ絶対に勝てないと分かっていても、出走できることが名誉である。
自分の馬が皐月賞に出走可能となればやはり走らせたいし、皐月賞で惨敗してもダービーに出走できるなら走らせたい。そういうものであろう。
皐月・ダービーでは大負けしたものの、菊花賞で好走したサトノルークス、ファストタテヤマなどもいる。
以下、負けても負けても果敢に三冠競走を皆勤した馬たちを紹介する。

グレード制導入以前


まず、グレード制が導入される前の馬たち。データの関係などもあって、競馬の話を「今」と「昔」に分けるとき、グレード制が導入された1984年から1986年くらいを境にすることが多い。
この時代に、三冠競走で全て2ケタ着順を取りながら皆勤した馬たちが4頭いる。

1959 ワカノキング
1961 ヨドノハル
1964 クリベイ
1965 チトセドラゴン

である。ただ、この時代は距離もあってか、菊花賞に出走する馬の数自体が少ないこともあり、あまりこの括りに価値がないかもしれない。
というのも、クリベイに至っては
皐月賞 11着/24頭(3番人気)
ダービー 10着/27頭(6人気)
菊花賞10着/12頭(6人気)のうえ、
騎手:保田 隆芳 、調教師:尾形藤吉なんて
岡部幸雄×藤沢和雄みたいなものである。

第1回菊花賞が始まった1938年から第11回の1950年まではすべて一桁頭数で行われ、1951年には初めて10頭立てで行われたものの、1961年までは依然として半分以上の年が1ケタ頭数である。

ちなみに、上の第1回と第11回の年号を見て、ズレに気づいた方はいるだろうか?
もちろん、1945年に戦争の影響を受けて中止した影響はあるのだが、1944年の菊花賞では今では考えられない事件があった。
戦争の影響もあり、この年だけ「長距離特殊競走」と名称を変更して行われた第7回菊花賞。このレースでは、同年の日本ダービーを制したカイソウが1着入線し、結果も確定したはずだった。のだが、なんと全馬・全騎手がコースを間違えていたことが判明。レースの行われたおよそ1ヶ月半後に競走不成立の裁定が下されたのだ。裁決委員でさえコースが違うことを認知しておらず、遅れてこの顛末になったのだそう。
こうして「第7回菊花賞」は幻のものとなり、1946年のものが「第7回菊花賞」となったのだ…。カイソウも幻の二冠馬になった。
(この年だけ菊花賞扱いされてなかったのでは?と思う人もいるかもしれないが、同じく1944年だけ「能力検定競走」として行われたダービーは、第13回日本ダービーとしてカウントされ、カイソウもダービー馬として名を残している。)

以上、余談でした。

そんな中、1964年に初の三冠馬シンザンが誕生する。その影響もあったのか、翌年の菊花賞は18頭立てで行われ、1965年以降に15頭立て未満の菊花賞は一度もない。
にも関わらず、全て2ケタ着順の馬はクリベイ、チトセドラゴン以降しばらく出ないのは、やはり頭数はあまり関係ないのかもしれない。
菊花賞の頭数がいくら少ないと言っても、ダービーに30頭出ていた時代でもある。
この頃の時代背景が分からないので言っていることが二転三転してしまうのは申し訳ない。

グレード制導入後


さて、ここからグレード制が導入された新しい時代に。
トウカイテイオーが二冠を達成したものの怪我に泣いた1991年になると、惨敗三冠皆勤馬が2頭も出てくる。

シンホリスキー (15-19-13)
ホクセイシプレー (11-10-14)

である。
何が凄いかというと、決して記念出走的な馬ではなく
シンホリスキーに至っては皐月賞・ダービーでは武豊騎手を背に乗せ、皐月賞は3番人気、ダービーは6番人気に支持されていたのである。
ホクセイシプレーも、人気こそなかったものの皐月賞11着・ダービー10着はかなり健闘している。

そして1994年。
あと一歩のところで「逆三冠」を逃したサムソンビッグが登場する。

最低人気の単勝172倍できさらぎ賞を逃げ切り制したサムソンビッグは、スプリングSでは破れながらも皐月賞へと駒を進める。中団でレースを進めるものの、結果は18頭中17着。この時の18着がトラストカンカンであった。
その後1戦(最下位)挟みを挟み迎えた東京優駿。3,4番手でレースを進めるものの、一気に先頭を奪いにいくアイネスサウザー柴田善臣の影響なども受け、先行馬にはかなり厳しいレースとなった。結果、17着のメルシーステージにハナ差つけられての18着であった。ゲートで立ち上がったノーザンポラリスが5着に来ていたり、最後方にいたヤシマソブリンが3着に来ていたりと先行馬にはかなり厳しいレースであった。
そんな中、ナリタブライアンだけは中団から早めに押し上げて圧勝してしまうのだから、本当に格が違ったのだが。

そしてその後は菊花賞に直行したサムソンビッグ。15頭中15人気で、今度は14着馬とは大差で敗北してしまう。
こうして、ダービー・菊花賞では最下位、トラストカンカンさえいなければ逆三冠として名を残していた?サムソンビッグのクラシック競走は終わった。ちなみにこの年に三冠競争を皆勤したのはナリタブライアンとサムソンビッグだけである。
菊花賞は距離が長かったのか?と思いきや、後に障害戦で2勝をあげるのだからわからないものなのである。

その後は
1995 イブキインターハイ
1995 マイネルガーべ
1996 オンワードアトゥ
2000 クリノキングオー
2003 コスモインペリアル

などの果敢に参戦したものの振るわなかった皆勤馬が続く
1995年のイブキインターハイは珍しい偉業を成し遂げており、なんと皐月賞・ダービー・菊花賞全てで12着なのである。
1着馬を除き、三冠競走で全て同一着順であったのは(86年以降)他に2015年のタガノエスプレッソしかいない。牝馬も含めると桜花賞・オークス・秋華賞・エリ女全て2着で、秋華賞トライアルのローズSも2着で5戦連続同一着順のヴィルシーナがいるのだが、これはみなさんお察しの通り、桜花賞・オークス・秋華賞、そしてローズS全ての勝ち馬がジェンティルドンナだったからである。
ジェンティルドンナ、おそるべし。

しかしまた、2003年のコスモインペリアルを境に惨敗三冠皆勤馬が現れなくなる。
私はあまり競馬には詳しくない(だからこういったことを調べている)ので、何か思い当たる原因がある方がいればご教授頂きたい…。

結局、次に全て2ケタ着順ながら三冠皆勤の馬が出てくるのが、先述の2015年タガノエスプレッソであり、この間12年である。

そして2015年のタガノエスプレッソ以降は

2018 オウケンムーン
2019 ナイママ
2019 メイショウテンゲン
2020 ビターエンダー
2020 レクセランス
2022 ビーアストニッシド

と続く。

そして思うこと。最近多くないか???


まとめ

最後に、果敢にクラシック皆勤をした馬たちの着順をまとめておく。


最下位のものを太字にしたが、やはり凄いのは皆善戦しており、ほとんど最下位はとっていないことだ。
もちろん着順は大事だが、やはりレースに出て、走ってくれないと始まらない。
今年も三冠皆勤馬の動向が楽しみである。

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