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修行

僕の場合、自分の道を進むために努力することをそう呼んでいる。

そこに、時間もお金もかける。

月に2回、氏神様、産土神様、崇敬神社を参拝し、神棚を更新する
お寺に通って、お経や真言を覚え、唱和する

といったこともあるが、

人のために、何かする。

・・これも、修行と考えている。

2年後にやろうとしていること、つまり水田畦畔の管理なんかはまさにこの範疇なんだけど、それ以外にも自分が出来ることはあるものだ。

先の週末は雨で、畦畔管理は観察以外に出来ることがなかった。なので、農家さんのお手伝いを買って出たのである。
テーマは、

日々のちょっとしたストレス

の解消。

庭の池が水漏れするとか、
農舎の水道がポタポタするとか、
ホースが地面においてあり、泥がついてキタナイ、とか・・・

こんなレベルのことですね。(笑)

でも日々これで「イラッ」としており、その瞬間は確実に波動が下がっているわけだから、看過しないほうがいいんじゃないか?って思う。

ストレス

かくして僕は、農舎を探検し、塩ビ管とか木の板とか、使えそうなものを引っ張り出す。
そしてホームセンターに向かい、接着剤だのネジだのを調達する。

昼飯もそこそこに2日間奮闘した結果、それらの問題は一応の解決を見た。

池は水をたたえ、
水道のポタポタは消え、
ホースは壁に、ねじれ癖がつかないような形でセットされた。もう手が汚れることもない。

農家さんは喜んでいる。が、しばらくすれば、この、うまくいっている状態がデフォルトになって、以前のことは忘れてしまうだろう。

さて、このお手伝い、農家さんにとってはお手伝いなのだが、僕にとっては「修行」なんですね。ところが、その修業は、

楽しくてしょうがなかった!

楽しいことで修行できるなんて、こんな素晴らしいことがあるだろうか?
ブッダじゃないが、「苦行」じゃなくても修業はできるものですね。

それを修行と思えば。

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3年ほど前、新幹線で隣り合わせた以前の上司(お坊様でもある)に、

動禅

という言葉を習った。

あの時はそれ以上のことを考えなかったが、今は理解できる。


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