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純粋

職場にとある女性がいる。
その人が赴任してくる前、彼女の課では作業中の事故がよく起こっていた。
そんなわけで、事務所には「お不動さん」のおふだが祀られることになったのだが、彼女はそのおふだに毎朝手を合わせている。

最初はそれを「神棚」と思ったのか、柏手を打っていたので、それはお不動さんだと教えてやり、どこのお寺のものかも伝えた。

ある日僕は彼女に問うた。

僕  「毎日偉いね。どうですか、何か変化などありましたか?」
彼女 「はい。おかげさまで、お参りするようになってから、事故は一度も
   起きていません。」

彼女は、特に「見えない世界」に興味があるようではない。ただ毎朝、自分が育てた草花を供え、手を合わせる。人目を気にしている風もない。
そんな彼女を見て僕は、

ああ、純粋な人だな


と感じる。
そして、

こういう人が神に愛されるんだろうな・・


とも思う。

僕は毎朝一番に出勤し、おふだに手を合わせ、不動明王の真言を3回唱える。ただそれは「ごあいさつ」のようなもので、何かを願っているわけではない。

手を合わせながら、自分に疑義を持っていたりする。

もちろん神仏をないがしろにしているわけはない。
けど、奥の奥、~本当にとても微妙な部分で~ 僕は神仏を敬っているのだろうか?と思う時がある。

取り越し苦労、と人は言うかもしれない。
けどそこが、まさに僕の「純粋でない」部分なのではないか?
自分を信じていないのかもしれないし、自分以外の誰かに頼ろうと思っていないのかもしれない。

けど、そういう人は、案外、僕以外にもいるのではないか?と感じる。

ただ、人間に内観は必要だ。「自分は正しいのか?」「自分はこう思っているけど、それは本当の自分なのか?」などなど・・

これを「審神者(さにわ)という。
一つだけ間違いないのは、審神者を繰り返していると、本来(と思われる)自分と、考えて行動している自分の「差」がなくなってくることだ。

こうして人は、本来の自分に近づいていく。




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