弥勒世
「弥勒世(みろくよ)」・・とはどんな世界だろうか?
神のふるいを通り抜け、より分けられた後に到達できる世界。理想郷。
そんなイメージが一般的だろうが、先日、ふと、
ああ、こういうことではなかろうか?
と理解できた気がしたので、noteしておく。
通過儀礼としての災害や災難、そういうものが正しく終わった後に、何が現れるのか。僕が思うに、人と人が争うことのない、平和共存・相互扶助の世の中のように思う。
となれば、そうでない「波動」、例えば、争いや慾、執着や我良しの気持ちなどといったものは、この弥勒世の波動になじまない。
・・ということは、存在できない、ということである。
また、人間同士だけの関係性でなく、人間と草木、小動物、昆虫、そして海や川や空、つまりは、この「大地」との関係性も良好でなくてはならない。環境破壊や生物の虐待といった波動も、存在できない。
あと、「お金」ってものも、場合によっては存在できない。
弥勒世では、何をして食っていくとか、そういうこと以前に、自分がこの地球の上で、全ての「命」と仲良くやっていけるのか?ということが大事なのである。
僕は今回の静養期間中に、このことに唐突に気づいてしまった。
そこには、何の執着も心配もなかった。
ただ、この世界に生きていられるという喜びだけを噛みしめていた。
その上にようやく、「自分は何をするのか?」ということが乗っかってくる。それが職業となるかどうかはわからないが、一心不乱にこれをやっていきたい! というもの。
これは人により、何でもいい気がする。
気が付いたら1日が終わっているような・・さして儲かりもしないのに何やってんだろ俺?と思うような・・けど、決して飽きることなく体が動き続ける何か。
そういうものを見つけられるといい。
時間がないと、日月神示には書いてある。けど、無暗やたらに騒いでもしょうがない。そこは落ち着いて、しっかり、内観することだ。内観に当たっては、神仏のおそばでやってみるのもいいだろう。何か気づきをいただけるかもしれない。
人間は間違う。
けれど神は間違わない。迷ったら、神に帰ればよい。
ただ、自分が曇ってしまっていて、何が神やら分からなくなっていることもあるから、まずは自分自身をきれいに整えておくことが不可欠なのである。
比沼麻奈爲神社の白砂の境内。
例えばこういうものを思い起こして、自分で自分を浄化してみて下さい。
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