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三鷹で生まれた「路傍の石」 「三鷹市山本有三記念館」

あなたは山本有三の「路傍の石」を読んだことがありますか?

わたしは小学生の時に読みましたが、
「路傍の石」は
当時彼が住んでいた三鷹の家で書かれたことは
知りませんでした。

その家は今、
「三鷹市山本有三記念館」として
一般公開されています。

先日散歩がてら行って見ると、
そこはジブリの映画に出てくるような
趣のある洋館でした。

もともとこの家は
清田龍之介氏が建てた邸宅でしたが、
この方も只者ではありませんでした。
牧師の息子として生まれた清田氏は
米国イェール大学院卒業後、
大学教授や商社役員も務め、
1918(大正7)年に三鷹の土地を購入。
当時この辺りは一面の麦畑だったのですが、
静かな環境を求めた清田氏には
良い場所だったようです。

彼は牧師の息子で
幼少期から西洋の文化に馴染んでいたり、
米国での生活経験もあったことから、
様々な意匠を凝らした洋館を建てます。
(設計者は不明)

関東大震災から間もなかったので、
地下と1階は鉄筋コンクリート、
1階五右衛門風呂の他に、
地下にはガス風呂があり、
トイレも水洗トイレが2箇所。

当時、この辺りには
下水が設置されていなかったので、
彼は自宅までの下水工事まで
自費でやり遂げました。

外観は英国風に
レンガを積み上げたようなデザイン、
南国風の大理石のテラスと
外観も見る場所によって異なる顔を持ちます。

3箇所のマントルピースもそれぞれ特徴的で、
暖をとる「イングルヌック」という、
床の木材の美しさや窓のステンドグラスなど、
素人目に見ても意匠が凝らされていました。

この家に清田氏が住み始めてまもなく
金融恐慌が起こり、
彼はこの家を手放すことに。

麦畑の中に立つ大きな洋館は、
中心部から少し離れていて、
美しくはあっても、掃除するのだって大変です。

なかなか買い手のつかなかったこの家を
気に入ったのが山本有三でした。

彼はその頃、吉祥寺に住んでいましたが、
夫婦に母に長男に娘三人、
書生に女中2人という大所帯。

さすがに家が手狭になり、
執筆に適した
静かな環境の家を探していたのです。

彼だけでなく、この家を見にきた
奥様もとても気に入ったのだとか。

もっとも魅力的だったのは、
お風呂とトイレが2つずつあったこと。

10人家族でトイレが一つでは大変ですし、
山本氏がいつ「風呂に入る」
というかわからないので、
それを待っていては家族全員が入浴を終えるのは
いつになるのかわかりません。

普通の家庭なら
10部屋以上ある家の掃除をするだけでも
大変なことですが、女中が2人いたので、
その問題もありませんでした。

かくして、山本家は1936年(昭和11年)に
この土地と建物を購入し、
ここで暮らし始めるのです。

山本氏は有名な「路傍の石」や
戯曲「米百俵」もこの家で書き、
自宅の一部を解放して
子供達のための「ミタカ少国民文庫」も開設。

これは戦時中に読む本のなかった
子供達のためのもので、
土日には近所の子供達が
本を読みにやってきたとか。

その後、邸内に「三鷹国語研究所」を設置して
新かなづかい、当用漢字の制定にも取り組み、
貴族院議員にもなり、
新憲法の口語化にも尽力します。

現在では今の憲法の文面も
難しく感じられますが、
元の草案はさらに難しい漢語・漢字が多く、
かな部分もひらがなではなくカタカナでした。

憲法の口語化は
その後の法令の規範となるべきものだったので、
山本氏はかなり積極的に活動されたとのこと。

当時のことを入江俊郎氏が
「憲法は国家の根本法で、
国民にとって一番大切な国法であるから、
できるだけ国民に分かりやすいものとし、
少なくとも、小学校を出たものなら、
ちょうど新聞雑誌を読むのと同様に、
憲法を親しみ深いものとして読めるようなものにしたいと考えたのである」
(「憲法口語化と山本有三」)
と書いておられます。

このエピソードからも、現在の日本国憲法は、
「より良いものを国民皆がわかるように作ろう」
と考えて尽力した過去の日本人の努力もあって
作られたものであることを感じます。

そのような様々な活動の場となったこの家は、
1946年(昭和21年)、戦後の進駐軍の接収にあいます。

少し都心から離れるものの、
部屋数や西洋建築であることなど、
この家は接収対象の建築物として
条件に合致してしまったのです。

山本氏は接収を免れるよう働きかけるものの、
接収は免れず、
一家は数日のうちに膨大な蔵書なども荷造りして
移転せざるを得なくなります。

約5年後に接収は解除されるものの、
勝手にペンキを塗り替えられたり、
汚損などもあり、あの懐かしい家は
元どおりの姿ではありませんでした。

子供達もすでに成長していたこともあり、
山本家がこの家に戻ることはなく、
この家は国立国語研究所分室に提供されます。

その後、変遷を経て、この家は1996年に
三鷹市山本有三記念館となったのです。

後に、山本氏は1965年の三鷹市報で
「敗戦の結果、私は家を接収され、
懐かしいミタカを立ちのかなければならないことになった。
(中略)
もし、家を接収されなかったら、
私も市民として、
ミタカにとどまっていたことであろう。

ミタカに住んでいたのは、11年ほどだが、
ミタカは私にとって忘れがたい土地である」

と語っています。

なお、この記念館の前には
「路傍の石」が設置されています。

実はこの石、
山本氏が「路傍の石」を書いていた昭和12年、
中野旧陸軍電信隊付近の道端で見つけた、
文字通り、「路傍の石」だったのです。 

山本氏はこの石を庭の裏庭に運び込み、
いつしかこの石は「路傍の石」と
呼ばれるようになったのだとか。 

後日山本邸が東京都に寄付され、昭和33年に
有三青少年文庫として開設された時に
現在の位置に移設されたとのこと。 

ボランティアガイドさんの詳しい解説もあり、
じっくり見学させていただくことができました。 

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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