生きがいを求めて20年。もがき続けた中で見つけたものとは
「自分の原動力は?」
「自分の生きがいは?」
「自分がイキイキと生きるためには何が必要?」
あなたはこんな事を考えたことはありますか?
僕はあります。
両の手では数え切れないほどに。
それを思い返してみれば、色々なことがよぎります。
それを一番最初に考えたのは高校3年生の時でした。
当時の僕は悩んでいました。
この先にしたいことが全く思いつかなかったから。
クラスメイトはどこの大学に行く、警察官になるなど、色々な思いを持っていました。
しかし、自分はどうでしょう。
全く浮かびませんでした。
これまではよかったのです。
目の前にすべきこと、したいことがたくさんあったから。
毎日の授業、文化祭に運動会、生徒会の仕事などなど。
いろいろありました。
でも、これからはどうでしょう?
大学に行くって想像できないし、
そもそも、大学でしたいことなんてない。
ああ、僕の人生終わったな。
素直にそう思いました。
でも、その一方で、
親連中は僕に「大学に行って、公務員になれ」と口を揃えて言っていました。
僕はそれに逆らうことはできませんでした。
そう思っていました。
なぜなら、従わなければ勘当されるから。
一家の家長である祖父は、
「俺の言うことを聞かなければ勘当だ!!!」
それが口癖の人でした。
それを真に受けていました。
なぜなら、当時の僕には生きる力がなかったから。
自分で自分の生活を支えていく力。
それがありませんでした。
だから、
見捨てられないように、
縁を切られないために、
生きていくために、
祖父、祖母、そして、それを否定しない両親に従う他ありませんでした。
彼らの敷いたレールの上を走ることしかできませんでした。
僕には自由なんてないんだ
って、思いこんでいました。
そうして、僕は植物が好きだからという適当な理由で、農学部のある大学に入ることにします。
必死に受験勉強をし、幸いにもなんとか入ることができました。
そうして始まった大学生活。
1年生の頃は楽しかったです。
実家を出てする初めての一人暮らし。
期待で胸が膨らみました。
また、クラスメイトとつるんで、色々遊んだし、語り合う毎日。
部活は合気道部に入り、同級生と力を合わせながら、先輩の指導に耐えていました。
そして、大学2年生に上がったある日のこと、
事件が起こります。
その日、僕はぼーっと大学構内を歩いていました。
夜空に月が上り、明々と僕を照らしています。
そんな中で思いました。
ここは僕には合わない。
したいことがあると思いこんでいたけれど、全然ありませんでした。
それもそのはず、
高校3年生のときに適当に決めて入ったのですから。
そうして、心が折れてしまいました。
その後は酷いものでした。
当時、僕は部活の人間関係に疲弊し、うつ状態になっていました。
学校のカウンセリングを受けつつ、なんとか大学に通う日々。
そして、大学3年生になると、状態はますます悪化し、不登校になってしまいました。
カウンセリングを受けるために保健管理センターに通う。
それが半年続きました。
つらかった。
そうして、大学4年生になりました。
なんとかうつ状態から持ち直した僕に、卒業研究と卒論が待っていました。
研究したいことも、研究への意欲もなかった僕は、また適当に研究内容を決めて取り組むことにしました。
しかし、また部活の人間関係や研究へのストレス、研究室に馴染めないことからうつ状態に逆戻りし、半年間不登校になります。
その時も、保健管理センターのお世話になり、なんとか命を繋ぐ日々。
カウンセラーと担当医、その他スタッフ、そして担当の助教授の力添えがあり、なんとか持ち直し、
卒論を出して卒業することができました。
しかし、僕は就職できませんでした。
公務員試験の勉強はうまくいかず、一般企業への就職のための就活もしませんでした。
いえ、できませんでした。
人が怖くて。
また、自己肯定感が底を這っていた僕は、自己分析をしても何も書けなくて、そんな日々からひたすらに逃げていました。
人に相談するのも怖くて、聞けませんでした。
今思い返すと、うつ状態で不登校を繰り返したのに、留年せずに卒業できた自分を褒めたくなります。
でも、当時の僕にはそんなことを考えられませんでした。
「自分はお情けで卒業させてもらったダメ人間だ」
ずっと、そんなことを思っていました。
そんな僕でしたが、2つだけ生きがいがありました。
「コスプレ」と「踊ってみた」というオタク文化です。
コスプレに関しては、ニコニコ動画という動画サイトに、コスプレの制作動画をアップロードしている人がいました。
その人を追いかけているうちに自分もしたいと思うようになり、この世界に飛び込みました。
そこから繋がった縁で、「踊ってみた」の世界にも入ることができました。
うつ状態で毎日、真っ暗な部屋の隅っこで丸くなっていた僕でしたが、なんとか生きていられました。
そうして、2年の月日が流れます。
僕は、その間に実家に戻り、繰り返すうつ状態と小康状態で何もすることもできませんでした。
自室に引きこもり、ただただ休むばかり。
そこでは、白い目を受けられて生活していました。
当時はまだうつ病がメジャーになる前で、僕の現状を理解してくれる家族は誰もいませんでした。
毎日アルバイト誌を持ってきては就職を促す母、
僕を冷たい目で見てくる妹、
苦しさを吐露するも「それは誰にでもあることだ」と突っぱねる弟。
そして、
怒鳴り込んで自室に入ってきては、公務員就職を促す祖父。
彼はよく僕をこうなじっていました。
「この怠け者め!」
正直、地獄でした。
家の中が、僕の生きる世界だったから。
そんな中でも、自殺を選ばなかったのは、
理解はできなくとも優しくしてくれた祖母と、
僕に無関心だった父、
そして、2年間続けてきた趣味のおかげでした。
特に、父は何もしてくれなかったけど、何もしてくれなかったのがこの時ばかりは救いでした。
彼らのおかげで、なんとか命を繋いでいました。
そうして、再び小康状態に入った時、
僕は一念発起して、作業療法士の専門学校に入ります。
職を得るという建前で周りを説得しました。
本音は、
白い目で見られる日々から抜け出したかったのと、
モラトリアムな時間をもっと味わっていたからでした。
そうして入った専門学校でしたが、入った当初は楽しかった。
慕ってくれる年下のクラスメイトと毎日話し、昼休みにはバドミントンをして汗を流す。
放課後には密かに持ってきた麻雀セットで卓を囲む。
そんな毎日を過ごしていました。
まあ、麻雀は学校の先生に見つかって、怒られたのですが。笑
それもまたいい思い出です。
そこで、また事件が起きます。
24歳の秋のことです。
とあることが原因で大きく体調を崩し、再び不登校になってしまったのです。
ひどいうつ状態になり、外出ままならず、登校できなくなりました。
このときもまた、半年ほど体調を崩し続ける事になります。
学校は中退することを選びました。
2年目も行ける気がしなかったためです。
その翌年の冬、僕は本気で自殺を考えました。
先程触れなかったのですが、大学卒業後の22歳のころにも、何度も高いところから飛び降りて自殺しようと考えていました。
それ以来の自殺企図です。
毎日、楽に死ねる方法を考え、自殺の方法を検索していました。
生きるか死ぬか、本気で考える毎日がずっと続き、
1月の中旬。
15日あたりだったと思います。
自殺を決行するか、最後の思考をしました。
これで決まったら、する。
そう考えに考え、深く思想していた時、
ふと母親のことが頭をよぎりました。
もし僕が死んでしまったら、母はとても悲しむだろう。
もしかしたら、うつ状態になるかもしれない。
僕が中1の頃に複雑骨折したときにも、泣いていたらしい。
それを思うと、
僕は死ぬことができませんでした。
最後の最後のところで踏みとどまりました。
そうして僕は、自分に呪いをかけました。
「死ねないのだから、生きるしかない」
と。
それ以後、消極的に生きるようになりました。
そして、どうやれば生きられるのか、を考え始めました。
幸いにして、この時には、僕にはいくつもの希望の光がありました。
現状を理解してサポートしてくれる両親と祖母。
僕の現状に触れなくなった妹と弟。
そして、趣味。
両親と祖母は、
僕が大きく体調を崩した年の夏に精神科を受診してから、理解を示すようになっていました。
妹と弟も白い目でみることは無くなりました。
祖父を除いては。
こんなふうになっても祖父は、
「こんなのは怠け病だ!」
となじってきました。
とても悲しかった。
祖父は常に自分を苦境に立たせてきた原因でしたが、
幼い頃は可愛がってくれたので、僕のつらさをわかってほしかった。
でも、仕方がないので、祖父は放っておくことにしました。
こうして、専門学校に入る前の地獄の様相と比べると、段違いに生きやすい家庭環境になったのです。
双極性障害(精神科で診断された)の影響で自殺企図を繰り返してはいましたが、だいぶ生きやすかったように思います。
そんな僕でしたが、
別のことでも苦しんでいました。
周りの友人たちは社会人生活を謳歌しているのに、僕は病気による体調不良で何もできない。
同級生の顔を思い浮かべては、自分の現状と比べる日々。
とても、とても惨めでした。
しかし、それがバネとなり、
社会に出て経済的自立をする。
という強い思いが生まれることとなりました。
そうして、これ以後、僕はその一心で生きていくことになります。
しかし、社会から長らく離れていたものが経済的に自立することは容易なことではありません。
何度もチャレンジをするも、挫折する日々を繰り返します。
精神科デイケアに通い、
家庭教師をし、
LGBTの活動に参加し、
就労継続支援B型事業所にも行きました。
生活訓練施設にも行きました。
でも、どれも就職には結びつきませんでした。
体調不良と人間関係への恐怖でできなかったのです。
つらかった。苦しかった。
それから数年が経った、2020年4月。
自分の人生史上もっとも強い自殺企図が生まれ、入院します。
幸いにして、1ヶ月で退院することができましたが、この時ばかりは自分にかけた呪いが効かなかったので危なかった。
2020年8月。
先述した動画サイト、ニコニコ動画で動画投稿を始めました。
コロナ禍で退屈になっていた僕にはいい刺激になり、これが生きがいになりました。
ゲーム実況、料理動画、劇場動画、歌うボイスロイド、作詞作曲など、色々な分野に手を出しました。
退屈で飢えていた僕の心を満たしてくれました。
ただし、度重なる挫折から、もはや就労への意識が潰えていました。
さらに、2年経った2022年夏。
こんな僕に運命の出会いがありました。
それは、同じゲーム(TRPG)を楽しむ仲間との出会いでした。
最初はキャラ設定を語り合う仲だったのですが、その人といるのがとても心地良くなりました。
彼と一緒にいると、とても楽しい。
彼となら一緒にいれる。いたい。
次第にそう思うようになり、
同年秋、
告白しました。
相手の返事は、OK。
とってもとっても、嬉しかった!!
そして、その告白の後、僕の心は大きく様変わりしました。
潰えていた就労への気持ちが復活して、
働くために動き始めたのです。
気持ちが潰えて2年も経っていたのに!
愛の力って、すごい。
そうして、僕は就労移行支援サービスに登録し、就職先を求めて動き始めました。
体調は不安定でしたが、人間関係への恐怖感はなく、順風満帆に進み始めたのでした。
そんな矢先、
再び事件が起こります。
2023年5月のことです。
このときのことは、今後一生忘れないでしょう。
彼と別れました。
振ったのは僕の方から。
とっても、とっても、好きでした。
でも、別れました。
その頃は、彼と僕が属していたコミュニティが崩壊していたときでした。
僕には余裕がなく、彼もイライラしていました。
そんなとき、彼が見せた一面が、僕にはどうしても受け入れられませんでした。
余裕のある時なら流せたのでしょうが、当時の僕には無理でした。
それから2週間がんばりました。
なんとか受け入れられないものかと。
でも、ダメでした。
別れたくないけど、一緒にいられない。
断腸の思いで別れを切り出しました。
そしてその時、僕は行動を誤ります。
恋人関係を解消し、友人関係に戻ればよかったんです。
でも、
僕は絶縁を選んでしまった。
その結果、彼と会うことは二度とできなくなり、
僕は、2週間寝込むことになりました。
とっても、とっても、つらかった。
つらかった……。
言葉で表すことができないくらいに。
僕は、本当は、彼を助けたかったんです。
苦しそうにしている彼を助けたかった。
でも、その僕が、助けようとしたかった僕が傷つけてしまった。
彼を捨ててしまった。
そのことが
つらくて
つらくて
つらくて
仕方がなかったです……。
その苦しみは半年続きました。
その間、そのことがフラッシュバックするたびに悶絶して、吐き気と頭痛に悩まされました。
誰も好きになることなんてできなかった。
そんな余裕なんてなかった。
就労への意欲も消し飛んでしまいました。
悶え苦しみつつも、ようやく傷が癒えてきた2023年12月。
そのある日のこと。
僕はある人を好きになりました。
相手は、半年間友達づきあいをしていた人。
とても癖のある人ではあり、最初は毛嫌いしていたのですが、
今ではだいぶ慣れ親しみ、共に楽しく遊ぶ仲でした。
その人への恋愛感情が芽生え、告白に成功したとき、ふたたび就労への気持ちが芽生てきたのです。
愛の力って、すげー!
愛の力のすごさをまた実感したのでした。
ちなみに、その人との関係は、なんやかんやあっておじゃんになってしまいました。😂
でも、この経験からわかりました。
僕の生きがいは「愛」なのだと。
「両想いであること」
これがキーとなるようでした。
パートナーに会うために稼ぎたい。
パートナーと一緒に住むためにがんばる。
こんなふうに、両想いという関係が僕の原動力になっているみたいです。
最初は、よもや自分が両想い関係を原動力にしているなんて思ってもみなくて、信じられなかったです。
けれど、こうも強烈な気持ちが2度も生まれると、信じざるを得ませんでした。
よもや、よもやだ。笑
こうして、僕は自分の生きがい、原動力の元を手にすることになったのでした。
人生に悩み始めてから20年。
これがあれば、人生をがんばれる。
生きていける。
そんな魔法のようなものがあるなんて、思ってもみませんでした。
生きがい、生きる原動力が実在するなんて考えられませんでした。
でも、ありました。
それは本当に存在していたのです。
決して短い道のりではなかったけど、ようやく見つけられました。
正直、とてもホッとしました。
それさえあれば、自分の人生が輝くって知ったから。
イキイキ、キラキラとした人生にはそれが必要だとわかったから。
素敵な人との出会いがあって、
両想いになれるかどうかなんてわからない。
だから、知ったところで、と思う人もいるかもしれないですけど、
僕は知れてよかったです。
人生が輝きを見せる条件を見つけられたのが、本当に嬉しかった。
もうこれで、どこにあるのかもわからない魅力ある人生を探す必要もないんです。
ようやく肩の荷が降りました。
ちなみに、僕は、3回目の告白をするために、雌伏のときを待っています。笑
そう、12月に告白したその人に、するのです。
3回目の告白を。
だって、それほどに好きなんだから、仕方ないじゃん。笑
それに、なんやかんやあったのも、完全に振られた感じじゃないし!
なんて考えながら、ベッドに横になりながら、ポチポチ文字を打っています。
あなたはどうですか?
自分の生きがい、自分の人生を輝かせるものを知っていますか?
自分らしく生きる方法はどうでしょうか?
もし、それがなくて苦しんでいるのなら、僕と一緒に考えてみませんか?
「ゆーきと話してみたい」
「相談してみたい」
などのお気持ちがおありなら、
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