美術史⑥:19世紀の画家”鋭い”印象派

フランスに住みだして一番学んだことといえば絵画。

印象派の画家達のまとめ方にはいろいろあるけど、今回は印象派と呼ばれた人達の中で個人的に”鋭い”感じがする画家達を紹介。

個人的に”鋭い”ってなんやねん!ってなるけど、輪郭線がくっきりしていたり、構図に価値を見出していたり、主張の強い色を効果的に使っていたり、そんな人たちの描いた絵は個人的に”鋭い”気がする。そんな感じ。

ポール・セザンヌ Paul Cézanne

1839−1906🇫🇷

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エクス=アン=プロバンスの裕福な家に生まれ、法律を学ぶが、画家になることを決めパリに移る。

美術学校エコール・デ・ボザールの入試試験に失敗し、画塾アカデミー・スイスで学ぶ。

この画塾でカミーユ・ピサロと出会い、影響を受ける。

印象派展やサロンに絵を出すが、どれも入選しなかった。

フォルムを簡素化し、遠近法を歪めたことで、独自のスタイルを確立したことで後期印象派と呼ばれる。

ピカソはセザンヌを「私たちの父」と呼び、20世紀の美術に与えた影響からしばしば「近代絵画の父」と呼ばれる。

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『果物入れ、グラス、りんご』(1879)

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『大水浴図』(1905)

ポール・ゴーギャン Eugène Henri Paul Gauguin

1848−1903🇫🇷

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左派ジャーナリストの息子として生まれ、母方の祖母はペルー貴族だったため、政治的理由でパリを離れなければならなかったとき、ペルーのリマで4年過ごした。

美術の勉強を始めたのは遅く、30歳になる前に初めて展覧会サロンに出展した。

せっかちな性格で、生活費がかからない静かな場所を求め、ルーアン、コペンハーゲン、パナマ、カリブ海のマルティニク島へと移る。

1888年、ゴッホがゴーギャンをアルルに招いて共同生活を始めるが、結局喧嘩して別れてしまう。

その後タヒチに行き、タヒチの風景や伝統を描き始める。

フランスに戻るも、作品の評判が芳しくなく、タヒチに永住する。

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『タヒチの女(浜辺にて)』(1891)

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『われわれはどこから来たのか われわれは何者か            われわれはどこへ行くのか』(1898)

アンリ・マティス Henri Matisse

1869-1954🇫🇷

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自然主義に反対したフォーヴィスムの生みの親。

ピカルディー地方に生まれ、法学の学位をとる。

虫垂炎からの回復途中に絵を描き、画家を志す。

象徴主義のギュスタヴ・モローのアトリエに入る。

1905年に若手グループで鮮やかな色彩と子供のような構図の絵を出展し、センセーションを巻き起こす。

批評家から「フォーヴ(野獣)」と呼ばれる。

1941年に大腸癌の手術を受けて以来、切り絵の制作を始める。

晩年には南仏のヴァンスにあるロザリオ礼拝堂のステンドグラスや壁画を担当した。

パブロ・ピカソ Pablo Picasso

1881-1973🇪🇸

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美術教師の父をもち、小さい頃から神童と呼ばれる。

1900年にパリに移り、親友の自殺により、「青の時代」に入る。

1904年ごろからは「バラ色の時代」に入り、サーカスの芸人や道化師の絵を中心的に描く。

『アヴィニョンの娘たち』はピカソ初のキュビズムの作品。

ドイツ軍の爆撃機によってゲルニカの街が破壊される姿を描いたのが『ゲルニカ』。

ピカソの死後は、フランス政府が相続税として彼の作品の多くを徴収した。


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