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そもそもなぜ「観る将」という呼称があるのか?(2)

おはようございます。将棋評論家のあたり雪片ゆきひらです。

きょうは、「しょう」について書いた前回の記事の続きです。

ええと、何の話だったっけ?

こういう続き物はやはり順を追っていくものです。なので、お手数ではありますけれどもどうしても前回のほうを先に読んでいただかなくてはならないということにならなくてすむよう内容をまとめたものがこちらです:

  • 過去の将棋ファンはほとんど例外なく自らもプレイヤーであった。局面の評価が曖昧だった時代には外から見ているだけでは何が行われているのかわからず、自ら指すだけの能力がないかぎり将棋を楽しめなかったからである。

  • ライブ中継が増え、対局の進行状況をリアルタイムで理解しやすい情報が提供されるようになり、これによって将棋ファンの幅が広がった。

  • この裾野の広がりによって生じた将棋ファンのうち、自分では将棋を指さない者を「観る将」と呼んでいる(と思う)。

前回の記事は「なぜ以前の将棋ファンは必ずプレイヤーでもあったのか」「観る将はいつ現れた」「なんで区別する必要があるのか」というみっつの疑問に沿って書かれ、ふたつめの途中で「長くなったのでまた今度」といって切られて終わりました。
そんなわけで、その続きから始めます。

「『観る将』はいつ登場した?」

妄想や架空の話を除けば、なんらかのものに名前がつけられるのは、それがこの世に存在する(に違いない)と信じられるようになった後でしょう。

前回の記事の最後の部分では「[画面を見てすぐに状況がわかるようになったのは]情報量を多くできる動画での生中継が行われるようになってから(…)」と書きました。そう、テキストや数分おきの写真ではなく、動画での解説つきの生中継です。振り返れば、この直前に大きなイベントの生中継が行われています。具体的にはこれです
(その他の記事: これとかこれとか)

「コンピュータ将棋を作り始めてから苦節三十五年…」の文言で始まり「ようやくにして名人にする力あり」と続くこの力のこもった挑戦状は 2010 年 4 月に日本将棋連盟に宛てて送られたもので、これを受け、対局の相手として清水市代との対局が行われたのが同年 10 月 11 日。
なお、この時点から 35 年前のコンピュータ将棋とは早稲田大学の大学院生が半年間で作ったものとされており、駒の利きの把握も怪しいところからプロと戦えるようになるまでの進歩は恐ろしいほどの苦難でした。しかしこの道程を記すにはあまりに字数を要しますから、今回は省きます。気になる人は、コンピュータ将棋の開発者を捕まえて訊いてみてください。

この対局は半年前からの宣伝の効果もあり、公式の振り返りにもあるとおり、ついに将棋ソフトがプロを凌駕するか?というふれこみで大いに注目を集めました。将棋にそれほど興味のない人からも「ありゃどうなるんだね」と訊かれた記憶があります。僕の予想は「あから・・・が勝つだろう」でした。でも、みんな半信半疑だったんじゃないかな。数年前の Bonanza と渡辺との対局以降、ソフト開発技術で大きなブレイクスルーは起きていなかったと思うので。

当時の僕が感じたのは「最も強い人間を出せばさすがに負けないだろう」という空気でしたが、もし負けたら何を言われるかわかったものではないので日本将棋連盟も怖気おじけづくことに理解はありました。
現実、全盛期ではないにしろ女流最強をうたわれた清水が負けたわけですから、たとえタイトルホルダー級でも一発入る可能性は十分にあったはずです。

そこで連盟はこのあとも続くコンピュータ将棋ソフトからの挑戦に対し、既に引退していた米長邦雄、四段、棋戦優勝経験のあるベテランと、時代のトップ棋士を出すのを避ける形で戦力を逐次ちくじ投入。「ソフトがプロを完全に超越した」と広く一般にいわれる瞬間を可能なかぎり引っ張りました

その間「羽生はぶ(善治よしはる)を出せ、渡辺(あきら)を出せ」といった時代の強者の出場を求める声は絶えず、ときに本人たちから乗り気ととれるコメントが出る時期もありましたが結局は実現しないまま、2017 年に Ponanza が当時の名人であった佐藤天彦を相手に勝利。人間の棋界の最高点である名人が完敗したことで、人間対ソフトの戦いは終止符が打たれます。
これら一連の対局については当時から「将棋プロの権威を損なう」とする反対も連盟の内外からあり、またマッチメイキングについても不満がありと、必ずしも支持されるばかりの出来事ではありませんでした。とはいえ、少なくとも興業的には正しい判断だったと僕は思います。なにしろ、将棋ソフトの棋力が人間のトップを越えるか越えないか、というまさに歴史的な時期に対局をいくつも組んだわけですから。

やろうと思えばもっと早い時期に最強棋士を出して「ワハハ! 百年早いわ! もうしばらくはやらんでええやろ!」とうやむやにしたり、あるいはそもそも「いやぁソフトが人間より強いわけないから無意味でしょ!」などと強弁してすっとぼける選択だってありえたはずです。

いうまでもなく、これらはいずれも棋士の保身を目的とした逃走ですから、非難の声が上がるのは想像に難くない。それを天秤にかけた結果ではあろうけれども、しかし連盟はおよそ勝ち目のない戦いに対し、ただ不様に逃げ回る手を選択しませんでした。

かといって棋士たちも素直に正面から激突して爆発四散するのではなく、ソフトが入玉に対応していない点を突いたり、事前にグリッチ (glitch) を探したりしてまで少なからず勝ちを得たのはさすが勝負師の集団。できればそんな真似は避けたかったはずで、これも賛否の分かれる声がありましたけれども、僕の目にはカッコよく映りました。名を捨てて実を取るのもなかなか大変な選択です。

しかしそのカッコよさ、せっかくなら多くの人間に見守ってほしいですよね。
その機会こそが、先のリンクに示したニコニコ動画での生放送です。

ニコニコ動画とは、再生中の動画の画面内に他のユーザのコメントが右から左に流れてくる独特の UI で知られている動画サイトです。今日でこそ少し冷え込んだ印象があるとはいえ、2010 年から 2011 年というのはニコニコ動画史上もっとも多くの動画が投稿された、非常に勢いのある時期だったそうです。僕は詳しくないので、他の方の Note を紹介しておきます。

そんなイケイケのニコニコ動画から公式にプッシュされる将棋の動画。
急激に進歩した将棋ソフトがプロをやっつけてしまうのか、あるいは人間が意地を見せるのか。技術の進化に注目する立場からしても、人間ドラマが好きな層からしても文句なく見どころのある内容です。
想像してください! それをリアルタイムで、生放送で、しかもみんなで感想を共有しながら観られる! となれば、それはもう必ずや大勢の人を巻き込んだお祭り騒ぎに……ああ、いや、ちょっと待った。

「アー、ドーモ。エエト。興奮しているところ悪いんだけど、こないだも指摘したように、将棋に興味を持つのは将棋を指せる人間だけなンだから、そんなものを推しても内輪うちわで盛り上がるだけで、運営としてはたいした意味がないのでは? あんな閉鎖的なコンテンツじゃ新しいユーザは獲得できないですよ。」

「あっはっは。将棋の生中継だなんて、冗談がお上手だ。」

もし僕がそこにいたらそういって制止したところでしょう(声のでかい無能ですね)。でも実際にはそうはならなかった。
そうです。ニコニコ動画はリアルタイムかつ他のユーザの反応を知れる中継という強みを活かし、プロによる現状の解説を頻繁に入れることと、ユーザ同士で情報を共有してもらうことによって、誰がどこから観始めても、すぐに、状況がある程度わかる、そんな将棋番組を発明しました。それは、まるで山道を走る車のラジオのように情報を断続的に垂れ流すだけだった以前の将棋中継とは完全に一線を画すものです。

参加するために資質が求められるのなら、その資質の必要性をなくせば裾野は拡がる。「親子で楽しめるコンテンツ」みたいな言い方をするものがありますが、ああいうのはこれと同じ発想で、制約をゆるくできればあとは広告によって新しい顧客をつかむ糸口ができる。
もっとも、簡単なのはそれを口にするところまでであり、隙あらば動きのないが延々と続く根暗ねくらのボードゲーム番組のパイロット版を撮ってみたときには、企画を出した人間もそこそこ胃を痛めたのではないでしょうか。 

とはいえ現場の映像を見ながらその道のプロが生で丁寧に解説を行うのはやはりエキサイティング。将棋に明るくない視聴者には欠かせないものであるのみならず、以前は大盤解説会(→会場などで大部屋を確保し、客席の前の壇上に大きな盤面を置いて棋士が解説するイベント)に駆けつけなければ観られなかったものがインターネット回線さえ用意できればどこでも観られるのは、既存の将棋ファンにとっても諸手を挙げて歓迎できる利点です。

かくして将棋中継は、なんとなくわかったような顔で謎の記号の羅列を眺めてウンウン頷くだけの読み物から、初心者はもちろん熟練者でも門外漢でも楽しめるライブ配信映像コンテンツとして生まれ変わりました。つまり……ワォーッ、みんなハッピーってことじゃん? やったね。

僕も詳しくは知らないのですが一時期は視聴者が多すぎるためミラー配信がかなり行われていた痕跡がありますし、運営としてもそれなりに手ごたえがあったのでしょう。一時期は叡王戦のスポンサーにまでなっていましたしね。
なおニコニコ動画が最初の公式将棋番組を放送したのは 2010 年 9 月 23 日だったそうで、翌 2011 年 2 月にもタイトル戦の生中継を行うなど耳目を集めるイベントは目白押しとなっており、「観る将」と呼ばれる、自分では指さないタイプの将棋ファンが登場する土壌はこのあたりをさかいに整備されたように思います。

それで、なんで呼称を分けなきゃなんない?

人間には、趣味というか癖というか、なにかにつけて見た目や性質によって物事を分けて名前をつけたがる傾向があります。それが学術的な方向にゆけば分類学となり、隣人に向かえば差別となる。大昔には、観察対象が自分が所属する集団の要素であるか否か素早く判断する能力として機能したわけですが、現代ではどちらかといえば事実に基づかない無意味な誤謬ごびゅうを招く悪癖になっています。

そういうわけで、原則的にプレイヤーとしてのスキルを持ったファンのみで構成されていた「将棋ファン」の集団に、実況解説と評価値のある画面から将棋にふれた新世代のファンが流入したとき、両者の間に若干の違和感が生じたのはある種の必然だったと推測しても大外れではないでしょう。

当然ながら、この両者は将棋について理解できる範囲があまり重なっていません。旧来のファンは棋書や記事などにあたることによって(理論的には)いくらでも昔のことを把握できるのに対して、新世代のファンは基本的に解説者が偶然に出す昔話によってしか知識を受け取らないためです。
したがって、ちょっと細かくなると話がとたんに通じなくなる。もちろん、同じ中継を観ているときでも将棋の内容そのものについても理解の解像度はとてつもない差があったはずです。

この知識の断絶がそのまま「こいつら同じ集団の構成員じゃないな?」とする両者の意識に繋がったであろうことも想像に難くありません。なにせ、旧来のファンたちは将棋の内容を主に観ているのに、新しいファンたちは「いやそれは知らん」と応じるんだから。それを見て「じゃあ何しに来てんの?」といぶかったのも不思議はない。
お互い同じ仲間だと思って話をするとただちにモメる。
どちら側の圧力によるものかはともかく「観る将」の呼称が生まれた理由はこれでしょう。

お、こいつは将棋のファンだな、と思って話を始める前に「エー、アノー。いい天気ですなきょうは……アイヤ、ところで失礼ですが、将棋にはどのような姿勢でふれていらっしゃる?」と訊ねる手間は "観る将であるかどうか" が先にわかっていれば省略できる。わかっていれば「なんで指し手の感想や意見を持っていないのだ」と(落ち度ではないのに)嘆かれることもない。便利は便利です。
これが愛称か蔑称か、あるいはそのいずれでもないのかはよくわかりません。ですが、将棋中継の発展によるファン層の拡大にともなって必要性とともに生まれた可能性は高いと考えます。

しかし少し考えてみるとそもそも奇妙な話で、本来「ある競技のファンであるためにその競技をプレイできなければならない」などというものはないはずです。

突き指の経験がない人間がバレーボールを観てはいけないでしょうか? そんなことはない。

ベースボールを楽しむ前に自打球をすねにぶち当てて地面でのたうちまわる必要は? ない。
「手が臭くないやつは剣道の試合を観ることはまかりならん!」これもない。音楽を聴くために指揮者になる必要は? やっぱりない。
水泳の競争を楽しむのにプールの中で放尿する必要は? 自転車競技を観る前に抜いておいた自分の血を身体に戻す必要は? フットボールで盛り上がるために自宅のカウチの上で脳震盪を起こす必要は?

ない、ない、ない。どれもこれもない。

楽しむとはもともとこういうことでしょう。責任や危険は競技者に負担してもらって、自分はそれを眺める。それが「ファン」の本質です。
もちろん自分が参加する能力があってもよいですが、あろうがなかろうが関係はない。ましてその有無や程度の濃淡で誰かにどうこういわれる筋合いはない。どれくらい熱心であるかは人によってまちまちなのですから。
したがって将棋だって、べつに指せるからエラいということはない。たしかに将棋はプレイそのものの障害は小さく、それこそ道具がなくても口先だけで遊ぶこともできるくらいですが、だからといって楽しみたかったら実際にプレイヤーになるべきだとは到底いえない。それは楽しみ方を無意味に制限する主張になります。

ですから、本当は新しいファンたちを旧来のファンたちが笑顔で(それこそニコニコ、、、、と)受け容れるべきであったわけです。ただ、あのときは流入がきわめて短い期間で大量に起きたため、それが混ざり合う時間的な余裕がないまま綺麗に二層に見える状態になった。そのため本来は不可分であるはずの「将棋ファン」が分かれたままになっているのではないかと思います。

だからもしかすると、冒頭の疑問の答は「将棋だから」だったのかもしれないですね。

今回は以上です。



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