mononofu design Lab.

フィボナッチ数の中で繰り返される周期の侘びと寂び。

mononofu design Lab.

フィボナッチ数の中で繰り返される周期の侘びと寂び。

最近の記事

シナリオはいつもdéjà vu

なんとなく禍々しかった2023年は108回の鐘をついて日の出を見たらリセットされる気でいたけれど、そうは簡単に行かないみたいだった。時間は常に地続きなのだ。 昨年はどうだったろう。目標のように本当に退屈な一年だったろうか。なんだか常にシャトルランをしているようだった。特に11月以降は3秒くらいで終わったような気がする。 年末に振り返りの日も作れなかった。溜めていた10000ポイントも換金するの忘れて失効してしまった。クソが。本当は12月はゆっくり振り返りだけにしたいけれど

    • 幕開けと撤退戦

      なんだか年末年始だけになっているけど、それでも大切な場所だからチビチビ書いておく。 いろんな帝国が崩壊した、年末の歌番組は世代的にど真ん中を突いていた。なんとなく、お前の時代は終わったし、お前の時代はもう懐メロなんだという現実を見せつけられている感じもある。 よろしい。結構なことだ。 明治維新のような、新時代の幕開けのような、人類の終わりの始まりに立ち会えたような、稀に見るヤベー年だった。 まだAIは使いこなせていないし振り落とされないのに必死だけれど、これは本当に楽

      • sayonara

        教授ロスである。もちろん、年齢的にも病歴としても覚悟しておいて当然のところだったとは言え、何かぽっかりと抉られた気分でいる。 それだけ自分の中に坂本龍一という音楽家の創作物が取り込まれていたという事なんだと思う。 音楽家、というよりも聴覚から取り入れるあらゆる作品の可能性を広げた開拓者と言った方が良いのかもしれない。最も影響を受けた作家だと思う。音楽のみならず、創作には膨大な教養が必要であるという姿勢も、この人の姿からだった。 音楽機械論は難しくて読んでも読んでも読んで

        • そのスピードで

          前のエントリが去年の書き初めとはやる気の無さに草が生える。しかし別のところで300本くらいエッセイを書いてきたから良しとしよう。 「やめないことじゃない、やめなければ少しずついい方に転がっていくのよ」 大槻ケンヂのエッセイで見た言葉だ。確か氏が大人の階段を登るときに担当した女の子が言っていた言葉だった気がする。 そうかもしれない。 少しずつ物事は動いている。2018年あたりに思考が爆破してけっこう大変なことになった。これまで疎かにしていたと張り切ってインプラントしまく

        シナリオはいつもdéjà vu

          May be the 4th be with you

          納めず始めず、日々の延長を生きる。という美学のようなものがあった。 退屈な一年にしたい。 毎年思うし毎年変わらない。昨年はどうだったろう。なんだか年末は怒涛だった気がする。 大晦日も普通に稼働して、特に正月らしいこともしないで元旦を迎えた。いつも通りなはずだった。過去形なのは何かが違っていたから。 どうだろう。ギリギリまで粘ってそのまま倒れ込むように布団にダイブして、初日の出もギリギリ間に合ったくらいだった。よろしくない。 特にイベントとか節目を設けないようにしてい

          May be the 4th be with you

          三日三晩に渡徹夜

          年齢的なものでしょうか。徹夜のダメージをものすごく引きずるようになってきました。20代であれば半日寝れば元に戻っていたものが、一回の徹夜で数週間は時差ボケのようなボケボケ具合を発揮してしまいます。え?いつもだって。まあ、それもそうなんですが。 それと共に、脳の機能も少しずつ物量作戦が効かなくなってきたような感じもします。30歳そこそこまではとにかく詰め込みたい!と必死だった空っぽの脳みそも、今では少し何か新しいものに触れる度に、情報を整理するのが一苦労でもあります。 睡眠

          三日三晩に渡徹夜

          遊牧みんみん

          あまりにも自宅だと集中できないので、オフィスを2件契約しました。まだ少し気が早いかもしれませんが、疫病の下で控えていた移動も、これ以上薄まった時間を過ごすのもあかんと、課金して時間という寿命が延ばせるならば、金で命を買えるならばとえいやっと勢いついてしまいました。 あれだけ三浦推しの横浜嫌いだったのに、今絵は横浜、三浦のちょっとした距離を移動する日々です。毎日通勤電車に乗っている方には申し訳ないのですが、早朝に出かけて昼下がりに戻ってくるガラガラの電車というのはいいですね。

          遊牧みんみん

          憂いよ讃えよ

          三島由紀夫の命日は憂国忌とも言いますが、なんだか氏が国を憂いたというのもなんとなくわかるような今日この頃。 舵取りが出来なくなった大船にやんややんやと野次が飛ぶ 様は見ているだけでテンションが下がっていきます。見ないようにしていても人は弱いもので、スキャンダルを同じくらいに、その喧騒を覗いてみてはまたテンションが下がる。なんとも悪循環です。 これからの行く末をどうすべきか。それをここで議論するつもりはありません。ヒマそうに見えて実際にヒマですが、まだまだやらなければならな

          憂いよ讃えよ

          詰め込まないで日常を死守する

          何度も書いたけれど、自分の失敗の記録は今になっては宝物になっている。往々にして後になって重い重い足枷になっているのは、間違った成功体験から抜け出せない事が大きな原因になっている事が多い。なんだか最近のニュースにも通じるものがあるけれど、人のフリ見て我がフリを直すネタと思い込んで心頭滅却する。 前置きから脱線してしまった。間違った成功体験の一例をまとめてみよう。 良い仕事とは退屈である、と森博嗣先生は言う。締め切り間際になって慌てて行動して徹夜の連続で物事を成し遂げる。それ

          詰め込まないで日常を死守する

          古きは土に還り未知なるものに期待すること

          安心するのはまだ早いかもしれないけれど2020年からの1年半、本当に激動でした。この国に起こったこの100年間のグダグダを早回しで見ているような1年半でした。 さて、いきなりここで話はゲームになるのですが、20世紀を代表するゲームの名作、クロノトリガーは時空を超えたキャラクターが短期間に原始時代から朽ち果てた未来まで時間旅行するというゲームでした。冒険の後半で走馬灯の話がチラッと出てきます。これは地球の走馬灯なのではないか、そして未来を変える可能性を持ったキャラクター達に何

          古きは土に還り未知なるものに期待すること

          深堀リスト

          本当に同じような事ばかりを手を替え品を替えて書いている。劣化版自己模倣と言われても仕方ない。 それでもこうして言語化していないとあっという間に思考が詰まるのである。仕方ない。同じような事でも一年前と数ヶ月前、先週と微妙に違っていたりする。数mmの違いにしかすぎない。あのときはキレがあったのに、今はなんかダルダルになっている事だってある。そういう劣化も何もかも残していきたい。 数年前から自分の書いたものを見返す。恥ずかしい表現ばかりで穴があったら入りたいくらいだけれど、やっ

          大失敗でいいじゃない

          本当にいろいろ失敗してきた。恥の多い生涯だったし、むしろ生まれた事が失敗だったとさえ思ったことがある。悔やんで悔やんで、かと言って時計の針は戻らない。人様に見せるのも憚られる。 しゃあないから誰にも見せない自分だけのブログとか、墓場までもっといく手帳にあれやこれやと書き殴っては力いっぱいキーボードを叩き続けた。 数年続けた。気がつくと「僕たちの失敗」なる大作が出来上がっていた。 かのエジソンは失敗したのではない、うまく行かない方法がわかったのだ、と堂々と言ったという。そ

          大失敗でいいじゃない

          やらないということ

          本当にいろいろな事を詰め込んできた。おもちゃ箱をひっくり返した感じが好きだった。音楽、映像、文章、写真、イベント、多重露光、、、と武器が変わっても、頭から尻尾までギチギチに詰まりに詰まっているものばかりだ。やらなくていいものも過剰にゴリゴリ入れている。 大は小を兼ねる。それが絶対の正義だと思っていた。 どんなヘンテコでもいいから毎日多重露光の一枚を仕上げていた時期がある。そしてある日自分の写真を見返していて情報量の多さにウゲー、となった。多作か、と言われると決してそんな事

          やらないということ

          お茶っこ

          やっぱりステイホームしている。珈琲が好きで、香りも淹れるメンドクさも大好きだけど、一日に何杯も飲めない。そこそこの刺激だから、三杯くらい飲むとだんだんうげー、って感じになってくる。歯を食い縛って飲むけど、夕方くらいにはありがたみが薄れてくる。飲むけど。 そういえばお茶を愛する若者がいたのを思い出した。昔々polcaで投げた気がする。気がついたら白水桃香氏のデザインでパッケージもおしゃんになっている。何年も前に購入したきりだったのに、品物には丁寧にメッセージが添えられていた。

          均質で薄っぺらいものがハマるときもある

          ふと何度目かのphaさんの本を手に取った。ハルキストならニヤりとする淡々としてるけどリズミカルな文体は、ひきこもらないというタイトルとは裏腹についひきこまれてしまう。 この本の影響もあってか何でもないチェーン店の喫茶店が好きになった。 夜9時のドトール、神奈川県の最果てにあるこの街はもう真っ暗である。 スタバとは真逆で、あまり愛の無い機械的なオペレーション。匿名的で聴き終わったら印象に残らないけど、なんとなく流れているにはちょうどいい選曲のセンス。決して不味くはないけど

          均質で薄っぺらいものがハマるときもある

          不協和音が心地良くなる日まで

          母の日、父の日がマーケティング戦略で、、、とかいう話は今回は置いておいて。 家族とはこうであるべき、を押し付けているようでどうも悶々としてしまう日でもある。もちろん多くの家庭では微笑ましい日なんだろうけれど。 その微笑ましさが、無いことにされた家族間不和の上に成り立っている事に、グロテスクさを感じてしまう。 排除アートなるものがある。寝転ぶ事ができないベンチ、入れない広場、、、、バレバレなのに、そんな事知らないよとアート作品のフリをしてホームレス避けとなったアレである。

          不協和音が心地良くなる日まで