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ネストリウス派(景教)について調べながら思ったこと

 5世紀の半ば頃から十字軍の時代にかけて、シリア方面から、インド、ペルシア、中国などユーラシアに広がったキリスト教がある。このキリスト教が、ネストリウス派あるいは景教だと聞けば、「ああ、知ってる。聞いたことがある」と思われる方も多いかと思う。このネストリウス派(景教)について、以前から興味があったので、時節柄、外出しづらくなった数年前から、少しずつネストリウス派関係の本を読むようになった。その経過は、はてなブログの方で書いている。調べる過程で知ったのだが、学問の世界では、「ネストリウス派」という言葉は使わないで「東シリア教会」というらしい。ただ「東シリア教会」と書くより、「ネストリウス派」という言葉を使った方が、人の目に留まりやすいのではないかと思うので、このnoteでは、あえて「ネストリウス派」という言葉を使う。
 
 はてなブログで、ネストリウス派について書く際には、ネストリウス派の足取りを順番に追うだけでなく、できるだけその時代背景も探ろうと思った。しかし、言うは易し行うは難し。ブログをはじめてわりとすぐに、なんて無謀なことをはじめてしまったのだろうと気付いた。しかし、乗り掛かった舟で、最近、なんとかネストリウス派のはじまりから、ネストリウス派の衰退までの流れまでを書き終えたところだが、「世の中には、わからないことや、知らないことが本当にたくさんあるのだなぁ」と実感するばかりだ。

 ネストリウス派について知る大変さは、その活動期間の長さと、活動場所の広さと、歴史背景の複雑さにある。貴族政治から武家政治にうつっても、明治維新があっても、第二次世界大戦で負けても、天皇が存続し続けた日本、それも本州で暮らしていると、王朝や国の権力が丸ごと変わって、国境もしょっちゅう大きく変わるということが、体感として理解できない。ユーラシアでは、たとえばサーサーン朝のあと、中央アジアの辺りまでイスラム政権になるのだが、そのイスラム政権もいくつか並行して続々と登場してきて、その誕生の経緯も国境もよくわからない。中国方面では、遊牧民の国家が出来たり、多数の遊牧民が出てくるのだが、それぞれの遊牧民の領域は、戦いも多いし、よくわからない。遊牧民の中にはチュルク系やモンゴル系がいるけれど、これらは簡単に色分けできるわけではないなどと聞くと暗澹たる気持ちになってくる。イスラム圏のことや、遊牧民のことをいかに知らないかということに改めて気づかされたが、逆にいうと、ネストリウス派はイスラム圏や遊牧民たちと関係が薄くないということなのだろう。

 このように、わからないことだらけで、すっかり疲弊してしまったが、ネストリウス派を調べることで、ユーラシアという広い地域にひろがる国々の地理や歴史や現状にも興味を持てるようになったのは、良かったと思っている。


☆一応、ネストリウス派について書いている はてなブログのページを貼っておきます。はてなブログの方は、このnote以上に面白味のない文章(専門書をひきうつしたような文章)ですが、読んでやってもいいよとか、ネストリウス派(景教)に興味がある方は、一度、覗いてみてやってください。↓↓↓

ネストリウス派(景教)に興味がなくても、ソグド人とか、モンゴルとか元とかに興味がある方には多少は面白い記事もあるかもしれません。記事自体はともかく、各記事の最後に載せた参考文献名は、参考になるかもしれません。参考文献自体は、どれも面白かったです。ただ、紹介してある参考文献のいくつかは、すでに新刊での入手はできず図書館で借りるしかないものとか、図書館にもなくて古本で入手するしかないものも出てきているので、ご興味のある方は、これらの本が図書館からなくならないうちにどうぞ。

(標題の写真は、大秦景教流行中国碑。wikipeidaより)

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