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日本天文学とイエズス会士①~スピノラ、『乾坤弁説』、小林謙貞~

はじめに

 宗教改革に圧されるようになったカトリックから、反宗教改革のイエズス会が生まれたが、そのイエズス会は、世界宣教に力を入れていた。1549年に、イエズス会のザビエル(1506-1552)が来日し、キリスト教を布教した背景にはそうした流れがあった。サビエルが来日した当時の日本人は、地球が丸いことを知らなかったが、流星や稲妻、雨、雪について疑問を持っており、イエズス会の宣教師たちがそうした質問に答えることができたので、日本人に深い感銘を与えることができたという。ザビエルは、日本人のこうした知識欲に答えられるように、学識のある哲学者兼弁論学者で、宇宙の現象のことを知っている司祭が必要だと、ロヨラ宛の手紙で語っていた。また日本人が古くから中国を経由して新しい知識を吸収していることを知って、中国宣教を目指すようになったが、道半ばで亡くなってしまった。そうしたザビエルの意図を引き継ぐように、中国にはマテオ・リッチ(利瑪竇1552-1610)が、日本にはカルロ・スピノラ(1564-1622)がイエズス会から派遣されたが、どちらもコレジヨ・ロマーノ(ローマ学院、現在のローマ大学)のクラヴィウス(1538-1612)門下であった。クラヴィウスはグレゴリオ暦の制定に関わった人物で、その天文学的知識とはアリストテレス・プトレマイオスの学問に基づく四大説、地球・天動説であったが、それは当時のヨーロッパで最も科学的なものであった。

クラヴィウス(1538-1612)

イエズス会は「ヨーロッパの教師」と呼ばれており、クラヴィウスは、ガリレオとも交友があった。こうした天文学的知識を背景にしたスピノラや、マテオ・リッチそれに続いた在明・清イエズス会士の影響は、陰に陽に日本の天文学に影響を与え、それはキリスト教が禁教になったあとの江戸時代にも長く続いた。今回は、全三回に渡って、江戸時代になっても続いたイエズス会士の日本天文学への影響を少しずつ見ていきたい。(参考文献類は、本文全文の最後に付す)

1.スピノラ、『乾坤弁説』、小林謙貞

 1560年には、暦博士の一族であった賀茂在昌(アキマサ)が、京都で、イエズス会の天文学的知識によって、キリスト教に入信していた。1602年に来日したスピノラは、長崎、有馬、京都などで天文観測を開始した。秀忠や後陽成天皇もスピノラらが使う天文技術や知識に興味を持った。1612年には、マカオのアレニ(1582-1649)ら在明イエズス会士たちと呼応して、長崎・マカオの緯度を測定した。これは日本における月蝕の科学的観測の最初の記録だという。しかし、このスピノラは1622年、元和の大殉教で処刑にされてしまった。

 日本でのキリスト教迫害時代、スピノラのように殉教する宣教師もいれば、のちのフェレイラ(1580-1650)のように棄教する宣教師もいた。フェレイラ棄教の報に接し衝撃を受けたイエズス会は新たに宣教師たちを禁教下の日本に送ったが、その中の一人にジュゼッペ・キアラ(1602-1685)がいた。しかし、このキアラも捕まって拷問を受け、棄教した。ところで、このキアラが一冊の天文学書を携えており、宗門改奉行としてキアラを尋問した井上政重(1585-1661)は、この天文学書の翻訳を命じ、それを翻訳したのが沢野忠庵ことフェレイラであった。このフェレイラの翻訳に、長崎の書物改め役だった向井元升が訂正・批評を加えてできたのが『乾坤弁説』である。最近の研究によって、フェレイラがこの書を、前述のクラヴィウスの『サクロボスコ天球論注解』や、イエズス会の日本コレジオで使用された宇宙論の教科書であったペドロ・ゴメスの『天球論』を利用して翻訳したらしいということや、とりわけ後者と『乾坤弁説』の内容は章構成も似ていることがわかっており、そういう意味では『乾坤弁説』もイエズス会系列の天文書といえよう。フェレイラは、1609年に来日し、1612年に長崎、京都に移っており、その前年まで京都にいたスピノラが使った科学機器や書物を目にする機会があったかもしれないという。

 また、それ以外にも、南蛮天文学の系統として、林吉右衛門-小林謙貞という系統があったが、林吉右衛門は、井上政重が進めたキリシタン摘発の折、1646年にキリシタンだということで捕縛され、処刑されてしまい、弟子の小林謙貞(1601-1683)も連座して逮捕され、21年間も投獄されてしまった。林吉右衛門については、ほとんどわかっていないが、小林謙貞は、67歳のとき赦免によって出獄し、その4年後には長崎奉行の牛込勝登に見出され、厚遇を受け、多くの弟子を得たことがわかっている。出獄後の小林は、後述の京都から来た儒家・南部草寿と親しく交わり、牛込に南部を紹介して共に長崎奉行所に出入りし、弟子たちは小林・南部双方から学ぶことが常であった。小林謙貞は生前に書物を残さなかったが、死後、門人たちが題号を付けて編集したものの一つに『二儀略説』があり、この『二儀略説』は、前述のフェレイラ(沢野忠庵)たちによる『乾坤弁説』とかなり類似した内容だという。小林謙貞とフェレイラ(沢野忠庵)は同時代人であったが、小林は忠庵の弟子ではなかった。いずれにせよ、この『二義略説』も、『乾坤弁説』と同じく、当時のイエズス会系の天文学と同系だったのは間違いない。(小林謙貞は、測量家の樋口権右(左)衛門と同一人物だとも言われており、入牢前が樋口で出獄後に小林に改姓した可能性が高いが、樋口権右(左)衛門側の資料がないので、まだ確定とはいえないようだ。ちなみに、当時は天文学と測量術は隣接する領域であった。)

 1630年には、禁書令によって中国のイエズス会士たちによる漢文のキリスト教関連の書物の輸入が禁じられてしまったが、游子六の『天経或問』(1675年に刊行された前集を指す)は輸入された。この書物ではイエズス会士による天文知識などがたくさん参照されていたが、当時、輸入中国書を検閲する立場にあった前述の南部草寿が、これはキリスト教に関係しない天文学の書物であるとして輸入を許可した。輸入されたのは、1680年前後と推定され、このときはまだ小林謙貞も存命中だったと思われる。南部草寿の良識によって輸入された『天経或問』は、その後、後述する渋川春海(1639-1715)はじめ、日本の天文学者や、その他多くの日本人に長く影響を与えることになった。(続く)

(2022年4月7日 補筆)

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