見出し画像

日本天文学とイエズス会士③~天動説から地動説へ~

第1、2回目は、こちらです。↓↓↓

(承前)

3.天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)へ

 1543年、コペルニクスの『天球の公転について』が出版されたが、これは地動説(太陽中心説)をあくまで信じて、それをベースに、プトレマイオスに匹敵するまでの大天文学書に書き上げ、人々に天動説(地球中心説)か地動説(太陽中心説)かの選択を迫った革命的なものであった。1609年、望遠鏡を手にしたガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、コペルニクス説を支持するようになったが、日本や中国の天文学に影響を与えたマテオ・リッチやスピノラの師であるクラヴィウスは、ガリレオとも交友があった。当時のカトリックでは、聖書解釈に言及しないことを条件にガリレオの研究活動を認めていたが、ガリレオがそれを守らなかったのと、ガリレオが複雑な数学理論が苦手で避けて通ったこともあって、イエズス会の多くの天文学者は、旧説と、コペルニクスの新説を折衷したようなティコ・ブラーエの天動説(地球中心説)を支持するようになった。コペルニクスの地動説(太陽中心説)を推し進めたのは、ガリレオというより、ティコ・ブラーエの弟子のケプラーで、ケプラーは、ティコが残した大量に残したデータを手に、ティコの天動説(地球中心説)ではなく、コペルニクスの地動説(太陽中心説)の徹底化を図った。中国の天文学に影響を与えたイエズス会士のテレンツやシャールは、ガリレオだけでなく、ケプラーとも親交があり、イエズス会士がケプラーの楕円形理論を組み入れた『暦象考成 後編』を中国で再編したことは、2-3でも書いた。このように、天動説から地動説へと徐々に移り変わっていくヨーロッパの天文学の流れを、当時のイエズス会士たちはおさえており、この大きな流れは、タイムラグはあったけれども、在明清のイエズス会士たちの天文学の漢籍を通して、日本にも入ってきたのである。  

 さて、日本に地動説が入ったチャンネルは、このイエズス会士の漢籍以外にもあった。その一つが、天文学者でなくオランダ語通詞の本木良永(1735-1794)が訳した『天地二球用法』(1774年)である。これは、1666年、オランダの地図製作者のW.J.ブラウが作成・販売した天球儀と地球儀につけた手引書を翻訳したもので、地動説はニコラアス・コペルニキュスが提案したと書かれていた。オランダやヨーロッパで望遠鏡などの光学熱が高まり、同時期、地図がもてはやさたことは以前書いたけれども、


ブラウ親子はそうした地図を刊行した有名人で、ブラウの地図は日本にも伝わっていたし、地図を何度も自分の絵に描き込んだフェルメールの絵にも数回、登場しているが、父W.J.ブラウ(1571-1638)は、もともとティコ・ブラーエに師事し、天文学や航海用の観測器具や天球儀・地球儀の作成に従事していた。
 
 さて、日本で、一般に地動説を広く普及させたのは、本木良永ではなく、本木良永と親しく、西洋の天文・地理にも興味を持つようになった司馬江漢であった。フェルメールと同じくカメラ・オブスクラを使って絵を描いた日本人でもあった司馬江漢は、地動説を日本人に広めた立役者でもあったのだ。江漢は、コペルニクスとティコ・ブラーエを混同したりもしたが、『地球全図略説』(1793年)、『和蘭天説』(1795年)、『刻白爾天文図解』(1808年)で、地動説を紹介し、一般に普及させた。しかし、地動説を知った日本人は、驚き、「虚妄の怪説」と称して、誰も信じなかったという。日本で天文学の最先端にいた高橋至時も地動説を知っていたが、保留の態度をとった。世界観が変わるような新しい説を受け入れるのに時間がかかるのは、ヨーロッパも日本も同じだったようである。

 
まとめ

  反宗教改革の折、イエズス会士たちによって、日本に伝えられたヨーロッパの天文学知識は、江戸時代のキリスト教禁教下においても、明・清で活躍したイエズス会士による天文学の漢籍を通して、日本でもアップデートされ続けた。これは、東洋においては、天文学とは暦のことを意味し、為政者は暦をおさえなくてはならなく、より良い暦に改暦するには、西洋の最新の天文学知識が必要だと幕府が理解していたのと、日本人が本来持つ天文学への知的興味の双方が作用したからであろう。イエズス会士たちが伝えた天文学とは、天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)に徐々に移り変わっていくとき、あるいは望遠鏡など光学機器の発達によって地動説(太陽中心説)が徐々に受け入れられていく時代にあたっており、こうした流れは、キリスト教禁教下の日本にも確実に伝わっていた。1803年以降は、フランスの天文学者でパリ天文台の台長も務めたラランド(1732-1807)による『ラランデ暦書』のオランダ語版の翻訳を通して、日本の天文学的知識は、また一段と進むようになったけれども、そのベースには、これまで述べてきたようなイエズス会士経由の天文知識があったのだ。

 『ラランデ暦書』の翻訳によりオランダ語に苦しんだ幕府天文方は、外国書の翻訳という新たな業務を負うようになったが、この業務は、移り変わる社会情勢の流れに巻き込まれ、1828年のシーボルト事件へとつながっていった。

 

 

(参考文献その他)

1.『南蛮学統の研究 増補版』海老澤有道著、創文社、昭和53年
2.「マノエル・アキマサと賀茂在昌」『増訂 切支丹史の研究』海老沢有道著、新人物往来社、昭和46年
3.『イエズス会と中国知識人』岡本さえ著、山川出版社、2016年
4.『東洋天文学史』中村士著、丸善出版、平成26年
5.『西洋天文学史』中村士著、丸善出版、平成25年
6.『江戸天文学者たちの江戸時代』嘉数次人著、ちくま新書、2016年
7.『天の科学史』中山茂著、講談社学術文庫、2011年
8.『地図の歴史 世界篇・日本篇』織田武雄著、講談社学術文庫、2018年
9.『大宇宙展』東洋文庫ミュージアム、2020年
10.平岡隆二「沢野忠庵・向井元升・西玄甫」『九州の蘭学』、思文閣出版、2009年
11.「小林謙貞伝 長崎の資料を中心に」平岡隆二著、2018年
12.「渋川春海作江戸時代地球儀とその復元模型製作」西城惠一著、2001年
13.東京大学附属図書館 特別展示会2009年度「日本の天文学の歩み~世界天文年2009によせて」
(11~13の資料はインターネット上で閲覧可能)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?