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[note]に書くと世界が変わるかもしれない

テスト中です。

これまではほそぼそと、人様がお書きになったものを見せて頂いておりましたが、せっかくなのでもう少し積極的に利用してみようかと思い、どんなふうになるかを試しております。

従来のブログ等と違う点は、「売る」ことができることだと。しかし買って読みたいものがいま見ているWEB上にどれだけあるか。有料と書いてあれば即座に引き返すのが習慣になっている自分ですから、ましてや自分が有料コンテンツをつくれるとは思えません。

ただ、売れるか売れないか、売りたいとすればいくらが適正か、誰に向かって売りたいのか、等々を考えながらものを書いたり描いたりするのは、悪くないのではないかと思います。

実際に売るかどうかは別として、ちょっとした一線ができる感じです。

ただWEB上にアップするだけでも、自分のデスクトップで書き散らしているのとは少し違う感じがします。慣れてくれば一緒になるのかもしれませんが、とりあえず身構えるし、後で自分で恥ずかしくなることは出したくないと思いますから、臆病に慎重になります。誰も読者がいないブログでさえ。

仮想の他者。そこに本当の顔がつくかどうかはわかりません。でも少なくとも自分の部屋から外に出る感があります。(ほぼ気のせいですが)外の風が吹いているような。

内と外のあいだにある微妙な空間。匿名でありながら自意識はさらされる。ネットはその空間を妙に拡大してくれます。メディアを持たない一般人にとって、社会に対してモノが言えるのは、少し前までは新聞や雑誌やラジオの投稿欄ぐらいしかなかったんじゃないでしょうか。

そのあいだがふくらんで、ふくらんで、まだふくらみつづけているみたいです。大きな無意識が可視化されるんでしょうか。それとも何らかの恣意性が、何らかの意志ある力が、その方向をコントロールしていくんでしょうか。

消費者と思っていたら生産者になれた。被害者と思っていたら加害者だった。

立場のレッテルがはがれると、困る人はいっぱいいると思います。若者の代表のつもりで話していたら、いつのまにかとっくに保守老人になっており、現代社会に否を唱えていたはずが、すっかりただの愚痴になっていた。そういうことはままありますし、またそれと気がつかない人も多い。

じぶんを売ることの怖さとおもしろさ。

でも「じぶん」は一枚板じゃない。いくつもの顔が集まっているから、どのじぶんを出すか、どのじぶんなら売れるか、どのじぶんが愛されるかを考えたり。そうするうちにじぶんがわかってきたり、よけいにわからなくなってきたり。


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