怒りを表に出すということ

 今朝、夫は朝の三時半に目覚めて出社していった。
 自分のチームが担当していた物品を現場に納品したのだが、いざ組み立てようとなったときに、物品の形が指定していたものと違うとの指摘があった、ということらしい。
 そのことの謝罪と、物品の作り直しのために、真っ暗闇の中を出かけていったのだ。

 昨夜そう説明した夫はため息を繰り返して怒っていた。
 その物品を作ったのは自分ではなく、同じチームの同僚らしく、最初に一つ作って見せにこられたとき、夫は「向きが違うから直して」と指摘した。
 同じものを十個ほど作ることになっていたから、それ以降は「直したとおりにやって」と指示したが、同僚は残りの十個をすべて最初に失敗したのと同様、向きが違うまま作り、納品してしまったとのことだ。

「なんで注意したのに残りの奴をまた違ったように作るんだよ。あり得ない」と夫は怒っていた。そのせいで翌朝は三時に起きて現場に行かなければならないのだから、怒りたくもなるだろう。現場までは首都高を使って三時間以上かかる道のりだ。
 同僚の尻拭いのために一日が潰れる、現在進めている仕事も一日ぶん無駄になる、ただでさえ忙しいのに、と、とにかくぶつくさ言っていた。

 それを聞いたわたしは「まぁ怒るのは当然だわな」と思うと同時に、ちょっとだけ怒れる彼がうらやましかった。

 というのも、自分が会社で働いていた頃、わたしは他人のミスに対し怒ることができなかったのだ。


 ――入社二年目の頃、あれこれ任されるようになったと同時に、指導してくれていた直接の社員がほぼ退職か異動となってしまって、勤めていた店舗にいたのは店長と課長クラスの上司、班長クラスになったわたし、わたしと同期で同じく班長クラスになった社員、そして無数のアルバイトがいた。
 わたしと同期は自動的に上司とアルバイトの調整役のようなポジションに落ち着いた。同期が早番、わたしが遅番という形に別れて、金銭の扱い方を覚えたり、アルバイトに指示を出すのもほぼほぼわたしと同期の役割になった。
 この頃のわたしはとにかく上と下に挟まれて、どちらに対しても波風立てず、波風が立ったらなだめたり抑えたりということを日々繰り返していた。
 特に波風が立つ瞬間というのが、誰かがミスをしたとき。小さいミスから客に迷惑をかける大きなミスまで様々あったが、わたしは基本誰が犯したどんなミスでも、「自分が注意していないから引き起こされたことだ」と考えてしまう嫌いがあった。

 たとえば前述した夫の同僚のミスの場合。夫は同僚に対し怒っていたが、わたしが夫の立場だったら、きっとわたしは自分に対しとにかく怒り、情けなくなっていたはずだ。

「同僚が最初にミスをした時点で、その後もまたミスするかもしれないと考え、ちょいちょい声をかけるなり仕上がりを見るなり、ちゃんと確認してあげればよかった」
「それを怠ったから同僚はミスに気づけず、そのまま納品となり、納品先に迷惑をかけてしまった」
「同僚もミスをしたことで会社からの評価を下げてしまった」
「それは全部、確認をしなかった自分のせいなのだ」

 という思考に陥ってしまうからである。
 ミスを犯したのが上司だったとしても同じ思考に陥る。

「わたしが一言確認しておけば、上司はミスを回避することができたかもしれない」
「上司のミスで今日の売り上げが落ちたら、その責任の一端はわたしにもある」

 ……ミスとは少し違うが、働いてた当時、わたしは上司が「君が入社した直後くらいに、これのやり方教えたよね?」と聞いてきた事柄があった。
 それに対し、わたしは教えてもらった記憶がまったくないというのに、ここで素直に答えては上司の顔を潰してしまうと考え、「はい。教えていただいたと思います。でもすみません、入社したばかりでまだいっぱいいっぱいだったのか、内容を忘れてしまいました。本当にすみません」と頭を下げていた。
 実際に上司が教えてくれたかは今でも謎だし、その頃には教えてもらわなくてもやり方は知っていたので大事にはならなかったが、そこは素直に「覚えていない」とでも答えておけばよかったのに、と過去の自分に突っ込みたいくらいだ。

 とにかく、そういう思考回路になっているので、『すべての悪い出来事は自分のせい』という意識で働いていた。
 そうなると当然、何事にも緊張してしまうし、常にいつミスが起きるか、起きた場合はどう対処するか、なんならなんと言って謝ろうかというところまで考えてしまう。
 毎朝毎朝、店舗へ車を走らせる道のりで、そのときへ備えシミュレーションを繰り返していた。
 同じくらい、今日はなにもありませんように、今日一日が無事に終わりますように、とすがる気持ちで神に祈っていた。
 ……今更だが、二年程度ですっかりメンタルがやられたのも無理もない気がしてきた。

 極端にミスを恐れる人間というのは『怒られるのが怖い』というのもあるが、わたしのように『ミスが引き起こす波風が怖い』という人種もいる。
 そういう人間はミスが起こることに必要以上に過敏になっているし、ミス後のフォローに大きく神経を削られている。
 現にわたしは部下やアルバイトがミスしたときは「まぁこんなこともあるよね。謝っておいたから大丈夫だよ。次は気をつければいいから!」と笑顔でフォローし、上司がミスしたときは「自分も気づかずすみませんでした」と、なぜか上司に向けて謝っていた。

 そのおかげかどうか知らないが、部下にも上司にもなぜだか信頼されて頼られていた。
 部下がミスしてきたときに最初に報告する先はほぼ100%わたしだった。
 わたしはそれを上司にどう報告すべきか、部下をどうフォローするかを考えに考え、考えすぎて……ある日突然なにもかも嫌になったのだ。


 ――そんな経験があり、普段からそういう思考回路になることが多いので、ミスした同僚に怒る夫に対し、半分「そりゃ怒るよね」と同情しつつ、もう半分でわたしは「君が最終チェックしなかったのだから自業自得でしょう」とも思っている。
 同時に、素直に怒りを表に出せる夫のことを、とてもうらやましいとも思うのだ。

 自分も働いているとき、変に「自分のせいだ」と曲解せず、素直に「おまえのせいだコノヤロー」と怒ることができていたらよかったのに。そうすればもう少し長く働こうと思っていたかも……
(……いや、それはないか。店舗自体売り上げもなにもかも傾いていたし、潮時だった)
 だがとにかく、あそこまで上と下の調整に日々胃を痛めて、問題が発生したと聞かされたときには心臓が跳ね上がり、冷や汗を手のひらにべっとりかくような日々は過ごさなくてもよかったのに、とは思ってしまう。

 他人が起こしたミスを検証すること、反省すること、フォローすることは必要かもしれないけれど、それを「自分のせいだ」と背負い込むことは余計なことだ。
 誰かから感じた怒りは無理矢理鎮めようとせず、夫のように吐き出すことで、メンタルを正常に保つこともできるのだろう。


 ……さて、そんな夫は今日は八時に帰ってきた。
 聞けば一日かかると思われていた物品の直しは昼には終わり、三時には会社に戻ってきて、普通に今日のぶんの仕事をしてきたとのことだった。
 昨日ミスに対しめちゃくちゃ怒ってきた社長と、今日も顔を合わせたらしいが、向こうがなにも言わなかったので、夫もなにも言わずしれ~っとスルーしてきたらしい。
 それを聞いたわたしは「わたしならここで『昨日はすみませんでした』から始まり、結局どうなったかとか今日の進捗とかをべらべら話す」だろうから、夫の態度はいかがなものかと思う反面、その強メンタルをうらやましくも思うのだ。

 まぁ強メンタルだろうと、往復六時間も車を走らせ、その後も力仕事をこなしたのだ。「足がもう上がらない」とさすがの夫も言っていた。
 それでも四歳の息子をお風呂に入れてくれている。そんな夫のタフさに、わたしは今日も救われている。


 怒りを吐き出すだけ吐き出したあとは、さっぱりといつも通りに戻れる。
 そう思えば、誰かに対して怒るという感情は、生きていく上でとても必要な要素ではないか、と思う一日だった。
  

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