東日本大震災(震災翌日から)
その後も震災の影響は続いた。個人的には最初の二週間程度は騒がしかった記憶がある。
一番は計画停電。わたしの勤める店舗は計画停電の対象地域からは外れていたが、こういうときこそ社会に貢献している体を見せるべきだということで、周辺の地域と同じ時間に店舗を閉めることに店長が決めた。
だいたい13時や14時頃にその時間がくるので、店舗内にマイクで放送を入れ、訪れていた客にも閉店時間を知らせるのに奔走した。
だが客は帰っても従業員は帰れない。特に遅番の時間は仕事がなくなるので、わたしも慣れない早番の時間の勤務となり、昼夜逆転生活から身体をもとに戻すのに苦労した。
次はガソリンだ。地震が起きて翌日にはもうガソリンスタンドには長蛇の列で、数日後にはどの店舗も店休になった。とにかくガソリンが回ってこない。
ちょうど地震がくる前の日に車のガソリンを満タンにしていたわたしは本当に運がよかった。
家と職場が車で五分の距離というのも幸いした。歩いて行こうかとも考えたが、勤務中に他店舗に調査に赴く必要があり、それはガソリンが車に残っている順に割り振られたので、必然的にわたしが毎日市場調査に赴くことになった。
とはいえこの時期は非常事態、他店を調査したところでいつもよりひとが少ないくらいの情報しか得られない。なにもかも自重モードで、どの店もイベントなどの告知が一切なかった。むしろ計画停電の予定表や、電力消費に努めているというアピールのほうが多かった。
かくいうわたしの勤める店舗も、店内の電気を三分の二まで減らし、いつも明るいカウンター前などは必然的に薄暗くなった。
ようやくガソリンスタンドが開いたのは地震から一週間ほど経った頃か。わたしもその頃にはメーターが危機的状況を迎えていたので、シフト休みを利用して行きつけのセルフスタンドへ車を走らせた。スタンドに入るまで500m以上も列ができていた。
ようやく回ってきたときには、効率化のため自分でやるのではなく、店舗のひとがガソリンを入れてくれた。
ガソリンの値段はそれまで99円と、下手すれば水より安かったのに、一気に150円近くまで跳ね上がっていた。この震災を機に、ガソリンの値段は100円を切ることはなくなった。八年経った今現在も、レギュラーはリッターで140円ほどである。
そしてなにより食料。ガソリンを入れたその足で、近くの大型スーパーに向かったわたしは唖然とした。カップ麺と菓子パンの棚が綺麗さっぱり空だったのである。お米もまったくなかった。思えばこの頃は勤める店舗に置いてある景品のお米さえよく持って行かれた。魚沼産のお高いお米ですらなくなるのだ。スーパーのお米などそりゃあ全滅するだろう。
わたしはとにかく、なにか胃に入れるものならいいかと、冷凍食品を買った。が、それもいつもの三分の一もなかったと思える。コンビニも似たような状況だ。その時期わたしはどうやって飢えをしのいでいたのだろうと、今となっては不思議である。おそらくマックやすき家ばかりはしごしていたと思う。
震災の三日後くらいに、雨が降った。三日もすると津波のほかにも原発の被害が取り上げられていて、放射能の心配が世間を駆け巡っていた。
業務を終え、マネージャーや班長と一緒に店を出たとき、ちょうどポツポツ雨が降り出した。おのおのの車に向かって歩きながら、「この雨にも放射能が含まれているのかな」と班長が言った。
「大雨に打たれた場合は、着ていたものはすべて捨てないといけないってニュースでやってましたよ。袋に入れて密封して」
「これくらいの小雨の場合ってどうなの? やっぱりこの服も放射能まみれになるの?」
「肌に当たったらやばくね? 傘とか差してても溶けるんじゃね?」
放射能のことなんて、誰もよく知らなかった。ニュースで悪いと言われれば悪いと思ったし、ネットの怪しい噂でさえ間に受けて、注意しなきゃいけないと思っていた。
みんな怖がっていたのだ。余震に。津波に。二次災害に。明日の生活に。これからの人生に。みんな不安だった。だから、流れてくる情報の真偽を見極める余裕なんてなかった。
それが真実だろうとデマだろうと、聞こえてきたものはみんな「そういうもんなんだ」と信じたし、それが正しいから実行しないといけないと思い込んだ。そうじゃないと、不安だったから。
三月いっぱいはそんな感じで、みんなおびえていたと思う。わたし自身平気に思えたけれど、この出来事がきっかけになって、その二ヶ月後には彼氏との同棲に踏み切っていた。
一人でいることがいやだった。同じ考えかはわからないが、この時期に結婚するひとは多かったと聞く。
同時に、社畜生活に疲れてきていた。翌月に新入社員が入り、三人の新人の教育を頑張っている最中、店の売り上げはどんどん落ちてきて、アルバイトは続々とやめていった。
――今思うと、店舗の売り上げが落ちたのも、人が離れていったのも、この震災とまったく関係がないとは思えないのだ。
店舗の売り上げが落ちたのは、二月のリニューアルが失敗したというのもあっただろう。実際その店舗はそれから一年も経たずにリニューアル前の状態にまた戻して、再びリニューアルオープンを謳って開店するという珍事に至った。
リニューアルが失敗だったというのもあるし、震災によっていろいろなものが自粛モードになって、パチンコ店に足を運ぶひとがそもそも減ったというのもあると思う。
震災から半年後には、客層も代わっていった。一言で言うと、柄の悪い客が増えた。明らかにヤクザっぽい客にいきなり怒鳴られた経験もある。
以前は今の五倍の客足があったのに、こういう柄の悪い客に当たったことはなかった。当たったとしても、客足が多かったときのわたしは新人。上のひとがあやまってくれる場面も多かった。
代わって、震災三ヶ月後に昇進し班長になり、店の鍵も金庫の鍵も常備し、現金すら扱う立場になっていた。そのときのわたしはあらゆることの責任者だった。客に絡まれて助けられる立場ではなく、助けに行く立場に代わっていた。だから、絡まれて肩を思い切り突き飛ばされても、延々と文句を垂れ流されても、笑顔で接客するのが普通になっていた。
客足は減るのに、柄の悪い客は増える。イベントとまでは行かなくても、いろいろな告知をして設定を上げてみるのに、客足も売り上げも伸びない。給料も目に見えて減り、手取り14万まで減った。
人件費を削ったためにシフトが回らず、お昼を食べる十分以外はホールに出ずっぱりで、呼び出しランプを見るたびに走って移動。それでも対応できずに、一日が終わる頃には、あしたのジョーのように燃え尽きていた。
どんどん代わるアルバイトの指導に、わたしが入る以前からいるアルバイトたちの調整、掃除担当のおばさんたちの愚痴の聞き役、あらゆることをやっていたせいか、だんだん疲れてきてしまった。
彼氏と同棲し、特に問題なく暮らせることがわかったから、仕事を辞めて結婚したいという考えに至るまで、そう時間もかからなかった。
当時一番辛かったのは、大好きな執筆活動ができないということだった。
毎日残業ばかりで、仕事の日は文章を書くどころか、本を読む時間も気力もない。かろうじてPCを立ち上げる時間があっても、ネットの海をうろつくばかりで一日が終わり、そのたびに自己嫌悪に潰されそうだった。
もともとプロの小説家になりたいという夢を中学生から抱いていたが、夢を追うのは大学生までで、社会人になったからには仕事第一に生きるべきだと思っていた。小説は趣味として空いた時間でやればいいと。
なのに、いざ仕事第一で頑張ってきたら、禁断症状のように執筆したい欲が湧いてきて、止められなくなったのだ。
売り上げも伸びない、人も離れていく、こんな店で馬車馬のように働くことになんの意味があるんだろう。そう思ったら、このままこの店と一緒に潰れていくのが、馬鹿馬鹿しく感じられるようになってしまった。
――結局、退職したいと申し出たのは、震災のあった年の夏か秋頃だったと思う。
引き留められなかったのは幸いだった。
代わりに、アルバイトにも社員にも後輩にも役職者にも、掃除のおばちゃんにさえ驚かれ、残念がられた。「あなたがいなかったらもうこの店に勤めていられないよ」という言葉を何人かから聞き、実際、そのうちの何人かが相次いでやめた。
わたしだけじゃない、たぶん多くの従業員が、その店舗に未来を見いだせないでいた。
あの震災は間違いなくいろいろなところに影響を及ぼし、人々の考え方も変えさせた。わたしで言えば、希望のない仕事をしたくないという思いを強くさせた。好きな人とと結婚したい。小説家になりたい。その気持ちも強くさせた。
――あれから八年。わたしは退職した翌年に妊娠し、結婚し、出産し、プロ小説家になった。わたしが勤めていた店舗は二年前に潰れた。
夫となった彼氏が務めていた店舗はそれより前に潰れ、その後、違う店舗を二店ほど回ったが、そこもことごとく潰れて、今の会社に転職することになった。
娘は五歳になり、四月から幼稚園の年長さんになる。息子も三歳になって、四月には入園し、お姉ちゃんと一緒に幼稚園のバスに乗る。それくらいの時間が流れたけれど、あの震災の影響はまだまだ続いているように思える。人の心にも、世の中の流れにも、消えない爪痕を残している。
なのに、記憶は薄らぐものだ。この記事を書くにも、当時の記憶を掘り起こすのはもちろん、震災三年後、つまりは今から五年前に書いた自分のブログ記事を読み返す必要があった。
ブログの記事を読んで思い出すことも多かった。特に先輩社員が言っていた「照明が落ちそうで怖かった」というのは、ブログを読んで思い出した台詞だ。
記憶は風化するのだ、あれほど恐ろしかった日の記憶でさえ薄らぐのだ、とひどく衝撃を覚えた。
だからこそ、元号が代わるこのタイミングで、自分の記憶の一部として、この記事を書き残しておきたかった。
あの日、あのとき、こんなことがあったんだ。
被災地にいたわけではない、被災者でもない――だからといって、なんの影響も受けなかったかと言われれば、それは違う。自分もまた、あの震災で影響を受けた一人なのだ。誰だってそうだろうと思う。
もし何年かのち、こんな災害があったと知った娘や息子が、当時はどうだったの? と聞いてきたときに、ちゃんと説明できるように……記憶は薄らいでいくから、せめて記録で残したい。
そして思い出すときは、必ず、犠牲になった人々が、今なお苦しむ人々が、安らいだ気持ちになれるように、祈っていきたいと思う。この震災に限らず、災害でたくさん涙を流された方々が、少しでも安らげますように。
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