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復讐に生きる1

 復讐に生きる。

 今年は復習に生きる。


 過去に真剣に学んだことも、時間の経過とともに記憶が曖昧になっていく。一般論として、真剣に学習したものは、細かいことを忘れてしまっても、なんとなく記憶の蔵に残っているものがある。それが、思わぬところで想起されて役に立つということがある。半面、必要なところで正確に思い出せず、学習の必要性を痛感することもなる。

 正確な記憶の保持に心血を注ぐより、過去の学習などというものは、放っておくのが一番という考えもあるだろう。記憶の精度の減退とともに、知識の現在価値は下がるが、それはあくまで必要ないものがそぎ落とされた結果であって、それでよいのだと。

 実践面での理想を言えば、細かい記憶を正確に保持し続けるメリットは、一応ある。特に現代は、皆が常にルーチンワークに携われるわけではない。日々の社会の変化が大きいので、仕事も生活も短期間で大きく変化する。半年くらい経つと過去の情報が全く役に立たなくなっていることもしばしばある。新しい情報に振り回されているだけで、一年が終わってしまうこともある。今年などは特にそうだろう。恐らく、2年後にはほとんど役に立たない「ウイルス」や「感染症」に関する知識の習得に時間を割いている人も多いはずだ。

 そういった中で、なるべく重心を下げ、安定するためには、一見するとあまり役に立たないような基礎知識をしっかりと頭にとどめることが重要になると筆者は考える。

 基礎が不安定だと、新しい知識がその場限りのものとして流れてしまって、時間の経過が「経験」としての意味を持たなくなる。結果、周囲に振り回されていただけで、歳を重ねた割に、できることも、わかることもほとんど増えていないという状態になる。

 逆に、正確な記憶を追い求めながらの日々は、長い。たった一年でも数年分の重みがある日々を送ることができる。おそらく、人間は、ピンポイントで何かを覚えるということができないからだろう。そのため、何かを覚えようとしているときは、周辺の出来事も記憶していくのだと思う。結果的に、当時の記憶が濃密になるのだ。

 さて、筆者が資格試験の勉強をしていたのは5~10年以上前のことだ。

 時は流れ、なんだかんだで、40歳が視野に入ってきた。体力の低下は、どうしても気になる。睡眠時間を短くすることは年々難しくなり、疲れると、変な時間に寝てしまうということも増えた。

 今から、20代の頃のように熱心に試験勉強をすることは難しい。そういった時期であるにもかかわらず、昔学んだことを結構忘れているという現実に向き合うことも増えた。

 ここで、「当時とは役割も違うのだし・・・」と、見切りをつけて、シフトチェンジしてしまってもいいのかもしれないが、「それは怠惰ではないか」との心の声が消えない。

 そんな中で、思い出したのが、佐藤優著の『読書の技法』にある一節だ。

≪本書で、筆者が高校教科書レベルの基礎知識をつけておくことを強調しているのも、それが知の伝統を押さえるために 最も確実で効率的だからだ。
 「受験勉強が現実の社会生活の役に立たない」という認識は間違っている。社会人が大学受験のレベルで必要とされる知識を消化できていないため、記憶に定着していないことが問題なのであって、受験勉強の内容は、いずれも社会人になってからも役に立つものだ。
 それがなぜできないのだろうか。ここに方法の問題がある。
 日本の受験勉強に関しては、学校に合格する、資格試験に合格するということが目的となってしまっている。要するに合格という目的地を目指して「道に沿って」歩いていくので、この目的地に到達してしまうと、受験勉強で詰め込んだ知識を維持していこうという意欲が失われてしまうのである。
 もっとも、受験勉強で勉強した内容は、かなりの部分が記憶の蔵に蓄えられている。
 あのとき勉強した知識も、仕事や人生の役に立てるために再活用するという意欲を持ち、正しい方法論、すなわちより高度な専門知識を身につけるために高校レベルの基礎知識が不可欠であるとの認識を持って、再度、教科書と受験参考書をひもとけば、その知識は確実に生きた知に転化する。≫

 一般に、学者は学校秀才以上の人間が成る。学校秀才は基礎教育をマスターした人間だ。日本史も世界史も知らないが、理科・数学は得意。という人は、部分の専門家にしかなれない。著者のいう基礎知識は、学問を成り立たせている人々が土台としている知識の事だ。これがなければ、同じレベルで物事を考えることができないから、結局、意味が理解できないということになる。例えば、数学を理解できない人間が現代の経済学や金融工学を学んでも、大雑把にしか意味を把握できないということだ。

 ただ、広く基礎知識というと、「その人が物事を考えるときに利用している知識」と、定義することもできる。これなら、部分の専門家も基礎知識を有すると解する。

 弁護士が何かを考えるときには、法律が土台になるだろうし、投資家が何かを考えるときは、経済的な変動を中心に据えるだろうということだ。

 この定義でいうと、私の場合は、基礎となっているのは大学受験のテキストではなく、大学での学習と資格試験で頭に入れた知識を中心にしている。そういった意味で、役に立つ基礎知識のほとんどは、試験教材から学びなおすことができる。

 ずっと読みなおしたかったテキストに、宅建のテキストがある。宅建自体は2回目の受験で合格したのだけれど、それは2010年の事。以来、教科書は処分してしまって、振り返ることすらなかった。実は、5年くらい前に再読しようかと思ったことはあったのだけど、差し迫って必要な知識でもないからと、放っておいたのであった。その後、民法の改正が確定したのもあって、せっかくだから、改正後の教科書で学ぼうと思っていたのだった。今年はようやく着手できそうだ。

 司法書士試験の教科書も再読したい。憲法と民法は、しっかり読んでいるので、これはちゃんと再読すればいいだろう。他の科目は、5年くらい前に流したくらいだ。受験するわけではないからそんな感じだった。

 伊藤元重の『経済学入門』も読みなおす予定だ。大学時代のテキストはもうないので、現在、大学生一般の標準的な教科書である本書で代用しようと思う。

 ITパスポートと、情報セキュリティマネジメントのテキストも再読したい。この二つは、過去問が公開されるたびに解いていて、今でも合格点を取れるのだが、忘れていたり、新しい用語があったりで興味がある。テキストは、技評社のテキストと、きたみりゅうじのテキストを両方再読したい。

 このあたりが終われば、基本的な再読は大体完了したといっていいと考える。他にも読みたい本はあるが、試験教材を読むのは、結構しんどい。量的にはこれくらいが限界だろうと思う。

 

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