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自分の存在の確かめ方について。
私には家族がいて、一緒に住んでいます。
だから、私という存在が消えてしまった時、誰かがそれに気づいてくれるはずです。
何だかいきなり寂しい書き出しですが、本当に書きたいことは物理的な「存在」についてではないのです。
言うなれば「存在価値」に相当する部分となります。
存在価値の確かめ方となると、それはそれで何だかエグい感じがするので、できるだけウェイトの軽い部分で考えたいと思います。
自分の存在について、はるか昔、中学生の頃に毎晩のように考えていたことがあります。思春期まっただ中であったからかもしれませんが、存在から始まって「死」まで考えていましたから実は恐ろしい気持ちにもなっていました。
その頃過ごしていた部屋の天井の模様が、白地にアメーバのような模様が小さく施されていたのです。それが何かの細胞のように蠢いて、いろいろなものをイメージさせていたのを覚えています。
その模様を見ながら、自分はどこから来て、どこにむかっているのか?つまりは、生まれる前と死んだ後のことを考え続けていました。
聞いたことはないですが、うちの子供たちに同じようなことを考えたことがあるかと聞けば、そこまで深くは考えたことがないと答えると思います。
彼らの傍にはいつもスマホがあって、余計なことを考えるくらいなら興味を惹かれる動画を見て眠れぬ夜を過ごすことを選んでいるからです。
自分の存在の確かめ方について。
そして、その動画には見知らぬ誰かが登場し、SNSでは見知らぬ誰かが投稿をしています。
他の誰かからすると「見知らぬ誰か」と言える私自身も、noteやTwitterの投稿をしています。
そうすると、誰かしらが反応してくれて、「いいね」や「スキ」をしてくれたりします。
ウェイトの軽いところで、自分の存在や存在価値までもが、分かりやすい反応や数字となって明確になるのです。
迷惑ユーチューバーと呼ばれる人や、嫌な感じのSNSの使い方をしている人たちですら、この反応に価値を感じているわけで、考え方は違えど共通する部分で存在価値を確かめていると言えます。
SNSやらオンラインメディアを使っている人なら、日々こんなところで存在価値を覚えるのでしょうが、オフラインではどうでしょうか?
この部分を考えると、かなり人それぞれになってしまう気がするので、過去の自分を思い返してみました。
メールすらなかった頃。
自分の存在価値というのは、「どこかに所属していること」がいちばん分かりやすかったように思います。
学生時代であれば、1年2組17番。
どこかの会員カードがあれば、会員番号:202394。
会社に所属していれば、○○事業部〇〇課〇〇グループ。
広い意味で言えば、住所ですら自分の所属を表しているものだと言えるでしょう。
けれど、これらは無機質すぎて、自分の存在価値の答えとしては不足しすぎます。
そうすると、何であるか?
それはやはり、実際の人間関係にあるのだと思います。
家族、パートナー、仕事、コミュニティ。
そういった場所で、特別な存在にならなくてもいいから、誰かと何かを話したり、笑い合ったり。
その程度のことかもしれないけれど、そこに自分の存在価値を見出していたような気がするのです。
つまりは、オンラインが大きな位置を占めている現代と自分自身の生活においても、人間関係というのは重要なのだと改めて感じます。
人間関係を良くするまでいかなくとも、コミュニケーションの大切さを体感すること。
それによって自分の存在価値というものを、日々の生活の中で確かめていくのだと思うのです。
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