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3.11に思う、生かされているということ。

今日は一日、3.11のことを考えていました。
正直、昨年までは深く考えることを避けていました。
それから、今日のnote毎日更新に「東日本大震災」のことを書くことを迷っていました。

どんな言葉を使っても、軽々しいものになってしまうと思ったからです。

あの日あの時、私は子供二人が通う小学校の校庭脇を歩いていました。ちょっとした忘れ物を、子供の靴箱に入れようと思っていたのです。
その時間は体育の授業などはなく、校庭は誰もいませんでした。

もうあと何メートルかで昇降口といったところで、足元にぐらつきを覚えました。一瞬、目眩でも起こしたのかと思いましたが、自分を支えきれないくらいのぐらつきだと判断がついた時、それが「地震」であることを認識しました。

まっすぐ歩くことができず、自然と身体は校庭の中心を向いていました。歩く必要もないのに、止まることもできないくらいの揺れに加えて、校庭の大人しい地面が地割れするのを見ました。

やっと倒れ込んだところで、呼吸が苦しくなりました。その頃の私はストレスがかかると過呼吸を起こしがちでした。
過呼吸なんか起こしている場合じゃない・・・と、呼吸が荒くなるのを沈めようと思ったところで、校舎と地面の間から、大量の水があふれだしてきたのを目にしました。校舎の横にあった小さなテラスが、ゆっくりとスローモーションのように崩れるのを見ました。液状化現象です。

そのすぐ後、たくさんの小さな子供たちが校舎から出てきました。

呼吸がなかなか整わない中、私は何もできませんでした。
先生に誘導されて並んでゆく子供たちを、ただ泣きながら見ていました。
この時の無力感を、今でも忘れることができません。

校舎に戻るという判断がつかなかったと思うのですが、しばらく寒空の下、子供たちは校庭にいました。泣いている子もいました。励ましている子もいました。

徐々に親が迎えに来て、校庭にいる子供の数が減ってきました。

うちの子たちは、なぜ私がいちばんに校庭にいたのかは理解できていないようでしたが、しゃがみ込んでいる私を見て「また、気持ち悪くなっちゃったの?」と声をかけてくれました。


この後、遠くの場所で、想像を絶する状況になっていたことを知ります。

余震もあったし、住んでいた街は壊れていたので、何週間も落ち着かない生活でした。

そして、日常に戻っていきました。


深く考えることを避けていたのは、不安が大きすぎると、身体に負担がかかるからという理由でした。
全般性不安障害の状態から抜け出す方法の一つとして、「悲しすぎたり、不安を強く感じるようなニュースは見ないようにする」というものがありました。

いつ起こるかわからない天災について心が囚われると、外出もままならないほどの不安ループに陥るからです。これを、「予期不安」と言います。

もちろん毎年、3.11について少しも考えないわけではありませんでしたが、ネットのニュースをいくつも熟読したり、動画などを見ることは積極的にしていませんでした。

そんな私ですが、今年はこうやって文章として思いを残そうと思いました。
私自身の「無力感」というものが、変化したからだと思います。

3.11に思う、生かされているということ。


私は小さい頃、大人たちが口にする「節目」とか「けじめ」という言葉が嫌いでした。嫌いというよりも、理解できなかったのだと思います。

「今日は特別な日だから」とか、「今日を節目に」とか、「今日でけじめをつける」とか言われても、今日も明日も普通にあって、大して変わらないじゃん・・・と思っていたのです。

大人になるにつれて、その考えが子供だったことを知りますが、どことなく「今日も明日も普通にあって、大して変わらない」という思いを持って生きてきたように思います。

それは、何事も何とかなるという前向きな姿勢で捉えれば有効かもしれませんが、どこか後ろ向きです。

いろいろな場所に行き、いろいろな方と交流が生まれたことによって、「自分」という存在がよりクリアになったのだと感じています。

それによって「生かされている」といった意識を持つことができたのだと。


今日一日、いくつかの震災関連のニュースを見ました。
何回も涙があふれました。
そして、また明日から、生かされている命を生きます。
生かされている命を、生きます。

そして最後に、今も深く傷ついておられる多くの皆さまに、心を寄せていきたいと思います。


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