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どうしてこんなに、19歳の私のことばかり思い出してしまうんだろう。

19歳の頃。

駅前の坂道を地面を見つめながら登った。時には父と。時には知人と。そして、ほとんどの場合はひとりで。

滑り止めのためのドーナツ型のへこみがついたコンクリートは、駅の光景より、街の光景より、何より覚えてる。下を向いて歩く私は、自分の人生になにが必要でなにが必要ないのかいつも考えていた。

お金もなくて、目的もなくて、社会に居場所もなくて、楽しく話す相手もいなかった。ただ、今生きていることだけが大切だった。そんな頃の私を、羨ましいとすら思ってしまうのはどうしてなんだろう。

あの頃からもうすぐ8年。社会の歯車の一部として過ごすストレスや不安と引き換えに、自由に使えるお金や、少しの信頼や、笑って過ごす時間を手にした。社会の落伍者という感覚は無くなったけど、気づかない内に自分の本体の何倍にも膨れ上がった失いたくないものを纏った。

ろくに食べもしないで家にこもって、人間らしい暮らしなんてしてなくて、たまに夕陽がきれいな歩道橋を歩いて、でもすぐ暗い部屋の中に戻って。全然健康じゃなかったしもうあんな暮らしはしたくないけど、あの頃の私は、要らないものをはっきりと知っていた。

なんにも持っていなかったからこそ、失うものはなにひとつ無くて、要らないものは全部捨てられた。それまでの自分をらしくなくさせたものすべてを捨てて、誰の影響も受けないまっさらな自分になった。自分の思考で、自分の価値観で、自分の軸で行動を選ぶ人生の原点になった。

だけど、最近の私ときたらどうか。膨れ上がった本体以外の部分をどうやって散らさず留めようか、そんなことばっかり考えてしまっていた気がする。

必要なものだけがある暮らしは、定期的に持ちものを見直し、考え、残すか残さないかを決める、そういう作業をしなければあっという間に破綻する。そうしてもので溢れかえった光景は、注意を削ぎ、気力を奪い、いつしかそのほうが居心地が良いという錯覚を抱かせる。

あの日坂道を登りながら何度も何度も考えたように、私は自分の人生に本当に必要なものだけ、もう一度選びなおさなければいけない。不安を埋めるように集めたものを手放して、両手で抱えきれるものだけで足りる生活にもどりたいんだ、きっと。

大丈夫。シンプルなことだ。今日からは、理想の自分と違うものから捨てていこう。

おいしいごはんたべる…ぅ……。