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AimaieとGift.

「あいまいえ」は、私が大学時代に住んでいたシェアハウスの名前です。6-7人の住人で住む場所を共有するにとどまらず、会員制のコミュニティ運営の場としても使われていました。住む人と訪れる人、運営側と参加者。関わり方は人それぞれだけれどその境界線があいまいな家。「あ、いまいえ。」とつい言いたくなる、居座ってしまう場所。名前の由来はこんな感じだったと記憶しています。

(余談: タイトルに書いてみて気付きましたが「あいまいえ」ってローマ字で書くとなんだか可愛らしい!)

この場所でわたしは、これらのコンセプトとは真逆な自分がいることに気付かされました。他人とどこか一線を引きたい自分。わたしは参加者であって運営ではないのだから、もっとこうしてほしいと運営者に委ねる自分。前日に訪れ、終電間近に去っていった人たちの飲み会の片付けをするのはなぜ住人なのかと嘆く自分。家でゆったり過ごしながら何か発見があるかもしれない毎日よりも、すぐに外に出て分かりやすい刺激を求めてしまいがちな自分。
こうして書き連ねてみると、コンセプトに惹かれて入居したのにも関わらず、正反対の行動・態度・在り方を取っていたことに我ながら驚きます。

私が入居したのは大学2年生、二十歳のときでした。私以外の住人は社会人2-3年目の方ばかり。最年少として扱われることに甘えきっていたのかもしれません。

いま住むとしたらもっと家にいる時間を大事にして、個室ではなくみんなが集まる大広間になるべくいるようにしたいし、他の住人ほどうまくはできないと思うけど料理もチャレンジして、みんなでごはんしたいなあ、と後悔に似た気持ちもあります。

そんな私でも、イベントに参加させてもらったり住人みんなでどこかへ遊びにいったり、家に帰ったら知らない人がいてとりあえず話してみたり。もっとあいまいえを楽しむぞ!と映画を見る会を企画したのに肝心の映画上映中はほぼ寝てしまったり。いろんな思い出があります。


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大広間でかぞく団らん。

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まっちさんとどひちゃんが選んだくれた住人それぞれのお茶碗。


就活を控えていた私でしたが、日々社会人と接していたからか、人事の方に対しても変に緊張しすぎずにお喋りする感覚でお会いできていたこと、いろんな規模の組織の中で自分らしく生きている少し歳上の方々を見て、社会人になっても自由に生きていいんだ、とぼんやりとした安心感をもてていたこと、あいまいえに住んでいたからこそ糧となった感覚がたくさんありました。

コミュニティへの信頼というものも、あいまいえで得た感覚です。
大勢の人が集まる賑やかな場があまり得意ではなく、少人数でごはんにいってゆっくり話すことが多いわたしは、友人=2人でご飯行ったりするくらいの関係性と捉えている節がありました。
あいまいえで知り合った人の中には、実はゆっくり話したことない人もいます。それでも、どことなく安心感があるというか、いざ2人きりになっても無言の時間があるかもしれないけど心地よいだろうな、と思う人たちばかりです。
コミュニティ全体でゆるくつながっていて、ほぼ初めましてでもなんとなく安心して話せる、そんな人たちに出会えたことにも感謝しています。いろんな形での関係の結び方があるということを知りました。

こうやって書くと、私はあいまいえで過ごした時間で貰ったものばかりです。
最近のわたしは、何かに貢献したい・だれかの力になりたい、そんな純粋な気持ちが自分の中にもあることを感じています。大学の頃は自分のやりたいこと・在り方が1番の関心ごとだったように思いますが、それらを通して社会とどう携わっていきたいのか、と視点が少し変化したのかもしれません。

またあいまいえに住めるとしたら、一方的にギフトを受け取るばかりではなく、もっと参加したり貢献したりできたらという気持ちがありますが、あいまいえはこの10月で完了となりました。
これからは、あいまいえでの時間を経て得た感覚をもとに、今いる環境で、今周りにいてくれる人たちとの関係性の中で、じぶんにできることを探していけたらなあと思います。

あいまいえにありがとうの気持ちを込めて。



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