彼も、あの頃の僕も「子ども」。

2023年12月11日、国際山岳デー(らしい)。
初めて、日記のような、エッセイのような何かを書いてみた。

正直、絶対に一本目に書くべきものではないが、
今日書きたいと思ったトピックはこれしかなかった。


先日、家電量販店に足を運んだ。

炊飯器やゲームソフト、キーボードなど、店を一通り見て回り、買い物を済ませた後、最近好きでよく見ているストリーマー界隈に感化され、ゲーミングコーナーを見て回ることにした。

青い光のラインがアクセントに入ったゲーミングPCをみながら、
最近、購入を検討しているゲーミングチェアに目向けた。

そこの店舗では、デスク、チェア、機器などが一通りセッティングされ、
モデルルームのような状態でに展示され、体験できるようになっていた。

残念ながら、チェアは満席で座ることができなかった。チェアは座って確かめた方が良いと聞いていたから、非常に残念だった。
チェアでは、大学生ぐらいの青年たちが談笑していたり、おじいちゃんが休んでいたりする中、そこに一人の小学生ぐらい少年が座っていた。

ヘッドフォンをした少年は、慣れた手つきでセッティングされたPCを操作し、遊んでいた。

僕は、その光景に何とも言えない違和感、「気味の悪さ」を感じた。

その時は、チェアも満席だし、残した用もなかったしで、そのまま店を出た。
ただ、その時見た、少年がPCに向き合う後ろ姿の光景と、胸の奥にある違和感はその日ずっと残り続けていた。

今日、改めてあの時の「気味の悪さ」はなんだったのか考えてみた。

そして、あの「気味の悪さ」は、自分にとって「理解できない」という不安からくるものだと結論付けた。

ここでの「理解できない」とは、彼の「人間性」を指しているのではなく、彼らの人生の道のりを指している。

まず、大前提として、僕が小学生の頃は、DSやPSPの時代だったから、ゲーム機器がなかったわけではなかった。だから、PCで遊ぶ、操作するという行動自体は不安を構成する要素ではなかった。

ただ、彼がPCを操作する手つきや姿、雰囲気があまりに「自然」で、
僕の思う「子ども」のそれとかけ離れたものだったのだ。

僕にとって「子ども」は、光る機械にソワソワしながら、親と一緒に慣れない手つきながらも懸命に遊ぼうとするような存在だった。
そんな僕の常識は、彼がPCを操作するだけで崩れてしまったのだ。

僕は、彼がこれまでの十数年をどのように歩んできたのかなんて知る由もない。
ただもちろん、そこにが善悪という指標は存在しない。僕の常識が彼らに崩されたように、彼の常識を僕らが壊すことも起こりうる。

そんな、ただ同じ姿をした生物を私たちは理解して、理解してもらう必要がある。

そんなことを考えた一日でした。


二リ2 - Niritsu -

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