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YUKA20代 活動を広げる

20代前半
スタジオレコーディングの仕事も順調にいただくようになり、知人からの誘いで「REPRISE」というバンドを結成。オリジナルを含めチャカ・カーン、シェリル・リンなどソウルフルな歌をカバーして歌っていた。

このバンドメンバーは後にそれぞれの分野で活躍している。同時期にコロムビアレコードディレクター内田高志さん、Victor(現 flying DOG)佐々木史朗さん他、多くのディレクターとの出会いがあり多くのアニメソングを歌唱させて頂いた。


連日レコーディングスタジオで歌う日々が続いた。
特に思い出深いスタジオは小渕沢のリトルバッハスタジオ。

レコーディングの仕事を続ける中、コロムビアレコードのディレクターの目に留まった。「アーティスト(シンガーソングライター)としてやってみないか」と。

やっと、夢が叶うかもしれない。

それまでのアニソンやコーラスのレコーディングの仕事は休止し、作詞作曲の日々。ボイトレとジム通い、ダンスレッスンを続け2年ほど経ち、オリジナル曲は300曲ほどになっていた。「渋谷eggman」にて音楽業界に向けたソロライブを行い、プロダクションに所属できる事になった。

その後さらに曲を作り続ける。
そしてようやく24歳で「麻倉未有」としてシンガーソングライターデビュー。

シングル4枚アルバム1枚リリース。シングル曲全てがTV番組のテーマソングとなった。
夢が叶った。ディレクターの渡辺夏樹さん、新人開発の高見由香さんをはじめ、コロムビアレコードの皆様に心から感謝している。

音楽プロデューサーの佐藤宣彦さん、演奏してくださったミュージシャン、レコーディングエンジニア、ヘアメイク、映像編集など担当してくださった皆様、プロダクション(旧パブリックイメージ)のスタッフの皆様、マネジメント会社ストロベリーフィールズのスタッフの皆様
どれだけ多くの方々に力になっていただいただろう。

アルバムリリース後レコード会社との契約が満了となり継続するか迷った挙句、麻倉未有としての方向性が見えず活動を休止した。



同世代の知人は大学を卒業して会社に就職したり、結婚したり、母になったりしている中、私は26歳で、またフリーター。
このまま夢を追いかけていて良いのだろうか。
家賃や生活費をどうしたら良いのだろう。
まず食べていく為に仕事を探さなくては。

六本木の料亭でコンパニオンのバイトをしながら某楽器メーカーの楽器で弾き語りをする仕事を頂き半年ほど時が過ぎた。
デビュー前にお世話になっていた株式会社フェイスミュージックの方々も「落ち着いたらまたスタジオの仕事を少しずつ戻していきましょう」と。半年ほど待っていてくださった。
本当に感謝しかない。

その後、麻倉未有のプロデューサーからSHAZNA(ビジュアルバンド)のバックコーラスの仕事を頂いた。
SHAZNAはあっという間に人気が高まり、小さなライブハウスツアーから始まったと思いきや、デビューからわずか2年程で武道館ソロライブするほどのスターになった。その他にもビジュアル系のバンドLa'cryma Christi、Pierrot、MASCHERAなどのレコーディングにも参加させていただいた。また、X-JAPANのPATAさんからお声がけいただき、PATAさんのソロアルバムにボーカルとして二曲参加させて頂いた。

SHAZNAツアーの最中、松任谷由実さんのライブスタッフに声をかけられた。その方は私が以前「JADOES」というバンドのコーラスをしていた頃に私を見てくださっていたとの事。

後日、松任谷由実さんのツアーコーラスオーディションを受けた。審査員には武部聡志さんがいらっしゃった。

合格かどうか決まる前に、全ての予定をキャンセルして背水の陣で結果を待ったところ合格の知らせがあった。

その後3年間に渡り松任谷由実さんのツアーコーラスをさせていただく事になった。

初めは苗場スキー場での「Surf&Snow」
スキーも楽しんだ⛷
素晴らしいミュージシャンとスタッフに囲まれて過ごした時間は宝物。


その後海外のサーカス団と共に過ごした「シャングリラ」由実さんの弾き語りがフィーチャーされた「フローズンローゼス」ツアー、「逗子マリーナ」他テレビ番組やイベントにも多数参加させて頂いた。


海外のサーカス団と船上パーティーなどもあり豪華で夢のような時間を過ごした。

ツアー先のホテルの部屋にはいつも花束が届いていた。いつの間にか私に沢山のファンが出来た。

辛いことの何倍も嬉しい結果が訪れる。
歌って来て良かったと心から思った。


ご観覧ありがとうございます^_^
続きはまた✨