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「なんか違う」その違和感を言語化せよ!

 自分のことを知る為には、自分のことをとことん追求していくことと、今、どこにいるのか?という立ち位置確認が必要。特に、自分がどこに立っているのか見えるようになる為には、「同感」よりも「違和感」の方が大切になる。「同感」は内省がしやすいのに対し、「違和感」の方は原因追求に負荷がかかる。その負荷こそがキモなのだ。

「なんか違う」というふわっとした嫌悪感や疑問をお座なりにせず、どうして自分はそこに違和感を感じるのかを徹底的に言語化する。

人と話すのも良いが、それは相手を間違えると、愚痴や悪口大会になってしまう。しかし、きちんと話せる信頼関係がある相手ならば、むしろ誤解の修正、情報の補足などをしてもらえる。また、独り言でも良いので、自分自身でも言語化しておくと、自分の思考が軸を強めていく。

「いろんな人がいるよねー」とか「みんな違ってみんな良いのだ」みたいな、生ぬるい結論に、しかもろくな思考過程を経ず達することをくせにしていると、いつまでたっても軸なんかできない。自分軸がないと嘆く人ほど、思考が浅いのが見える。

私は先週ある大きなニュースに対し、友人のほとんどがその行動を賞賛している状態に強い違和感を感じ、そう感じた理由を徹底的に言語化した。歩きながら、家事をしながら。ま、独り言だ(笑)何日も何日も阿呆のように独り言を発し続けたその結果「何か違う」が「ここが嫌なんだ」までに整頓され、確信し、自分の中にその答えを吸収できた。そして自分軸がいっそう強まるのを感じた。

ちなみに、それを本人に、または大声で世間に言うかどうかはまた別の問題だ。特に今回のニュースはそのあたりにも関連している。

さて、次の方のnoteは、インクルーシブという立ち位置で、違和感を唱えた子供の意見について考えを述べている。話の軸はこの件とは異なるが気づきを与えてくれた。

なぜ、日本の子供はこういう言語化が苦手なのか?あるnoteに出会い、その原因のひとつが学校の作文指導なのかもしれないという考えに行き着く。

自分の中に生じる違和感を「常識」という名の蓋でないことにしないことです。やりたいことと、やりたいと思わされていることの分離はそこから始まると私は思います。

型は、フレームワークとして思考を整理するのには良い。しかし、ある程度の段階を過ぎたら、「型破り」をし、成長していかなくてはいけない。特にいい大人が型を破った思考ができないのはいけない。

また、私は一教師として、子どもたちにも伝えていきたい。
子どもたちの作文で良く見かける

「このように〇〇には良いところも悪いところもあります。ですから上手につきあっていくことが大切だと考えます」

という結論の作文。
何にでもそう書く子が多い。試しに◯◯の部分に次の言葉を入れてみるといい。

原子力、遺伝子組み換え食品、動物実験、自衛隊‥‥。

作文として、なんとなく形になってしまうので、教師が何も言わず、ましてや丸なんてつけてしまうと、それがまかり通ってしまう。それで良いと勘違いしてしまうのだ。これは、何も考えていない証拠に他ならない言い方だと、指導者は指摘しなくてはならない。

子どもが「これではいけない」と自分から気づくような教育を続けていきたい。
その為には「どちらでもいい」や「みんないい」という言葉に対し、そんな結論に至った経緯を問い詰めるという手段もあり。

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