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父と私。-諍いのその後-(8/100)

こんにちは、まえゆかです。
少し冬の訪れかと思うような肌寒さですね。
気温の変化で体調を崩さないようにお互い気を付けて過ごしましょう。

さて、前回は、研究員としてパラスポーツに関わりだした頃のお話をしました。

研究員を務めていたのは、1年ちょっと。
この間にもいろんなことがあったのですが、私がこの仕事に人生をかけてもいいかもしれないと思いだしたことの一つのきっかけがありました。

遡ること、大学生の時のこと。

ちょっと過去にお話を戻します。

私は、初等教育を専攻する大学生でした。
特別支援教育に興味を持っていましたが、あくまでも目標は小学校の先生。
当時の関心で言うと、普通級にいる発達障害の子たちへの関心が強くありました。

大学の授業にあればよかったのですが、特別支援教育の授業は半期で1科目しかなく、深める機会は充分にありません。
でも、関心があるので何かしらは学びたい。


そこで百聞は一見に如かずの精神で、とりあえずボランティアの機会があればいろんなところに顔を出していました。
アルバイトとして区立小学校の通級指導学級の指導員もしていましたし、特別支援学校の校外学習のサポートなども行っていました。

たまたま帰省した時に、そんなことをしていると家族に話したときのこと。

変な、宗教とかにハマっているのか?

神妙な面持ちで、父が発した言葉でした。

一瞬、何のことかさっぱりわかりませんでした。

「は?」

たぶん、聞き返したんだと思います。

「いや、障害者とかのボランティアやるっていうのは、変な宗教の勧誘とかだろう。気持ち悪い。」


プッツーーーーーン


普段から、父との仲はあまり良くないタイプ。
顔を合わせれば小競り合いのある関係性が、一人暮らしをして家を出たことで冷戦状態になっただけの私たち。

私が志を持って取り組んでいることを「変な宗教」「気持ち悪い」と表現されたことに、瞬間湯沸かし器のように怒りが頂点に達します。


許せない!!

すごい勢いで、キレたことだけは覚えています。
だって、ものすごく、悔しくて、情けなくて。

大学生ながらにボランティアで関わった障害のある子たちは、とてもかわいかったのです。

その彼らを、知りもしないで「気持ち悪い」ということが、まず第一に許せなかった。

そして何よりも。

自分が無力だと実感していたからこそ、悔しかった。

大学生の私が、何かを問題だと思っても、ボランティアとして関わることくらいしかできないって当時は思っていたのです。
同じくらいの時期にNPOを設立して大学卒業後そのまま独立する同世代の子たちもいましたが、私はまだそんな考えには至ってなくて、寄付するお金も十分にないし、一人分のマンパワーにしかなれない自分にもどかしさを感じていました。


一方で自分の両親を見てみると、母は大学教授で、父も当時は国連機関での議長職を務める立場。
フィールドは異なるとはいえ、私からしてみれば、権力も地位もある人たちです。

「立場のある、お父さんたちみたいな人たちの考えが変われば、一気に世の中が変わるのに、なぜ知りもしないで差別的なことを言うのか。
立場のある人たちが差別をするから、世の中の差別は見過ごされる。
自分たちがどれほどの力と影響力を持っているのか、自覚するべきなのはどっちなの?!」


激昂した私はその後、自室に戻り、たぶん大した会話もせずに一人暮らしの部屋に戻っていったと思います。

その後、直接的にこの件についての話はしませんでしたが、私が特別支援学校の勤務になっても、特に何か言われることもなく。

その後、退職して障害者の社会参加をテーマに大学院に行きたいと話をした時も、全面的にサポートすると言ってくれたので、私がこの領域で活動することは不問とされたのだろうと認識しています。

知られざる父のその後

その後、月日は経って、私は研究員になりました。

1,2か月に1回開催されている朝のワークショップでは、情報アクセシビリティについてをテーマにしたらどうかという話に。

私自身は、ワークショップのゲストブッキングを担当する立場ではなかったのですが、少人数で動いている組織で、比較的文系の領域に携わっているメンバーが多かったため、この領域の講師は誰がいいだろうかとみんなで話していたのです。
その場ではこれという方が挙がらずに会話は終わったのですが、母と近況を話している時に、

「情報アクセシビリティについてのテーマで次はやるかもって話なんだけど、全然思い当たらないんだよね」

と話題に出したら

「手前味噌って言われたらあれなんだけど、そのフィールドの最先端のことしてるのってお父さんのいるとこの組織だよ? お父さんに聞いてみらたら?」

・・・

・・・

え・え・えーーーーーーーーーーーーーーーー?!?!


全然知らなかった…情報技術とか通信ってフィールドにいるとは思っていたけれど、アクセシビリティって何か関係するわけ?

元々は電子工学の人じゃなかったでしたっけ…??
NTTのエンジニアじゃなかったでしたっけ??
Bフレッツの開発者とかなんとかって聞いたことはあったけど…
それとアクセシビリティって何か関係してたっけ???

頭の中に?マークが乱立し、半信半疑で母の話を聞いていました。

でも、母からは

「ゆかがこの業界にいるからだと思うよ~。IT技術で解決できることがたくさんあるってよく話してるもん」


いや~~~びっくり。。

私がこの領域にいることは、不問なだけで歓迎されていないと思ってました。
私がキレるから、触らぬ神に祟りなしだと思っているのかと。笑

まさか、父の仕事に影響を与えていたとは。。

もちろん、父はドンピシャな形で研究をしている立場ではなく、いろんなプロジェクトを推進していく団体の長のポジションとして各プロジェクトの内容や各国の情報を把握している立場なので、報告としては全体像を話す人という感じでしょうか。

まさかの、父がワークショップ講師に。

というわけで、とりあえずの情報提供として父の所属する組織の話を研究会でしてみると、するするとゲストに登壇することが決まりまして。

まさかの第4回目のワークショップのゲストが父ということに。

過去の記録には父の名前とかは載っておりませんが、「国際電気通信連合(ITU)の電気通信標準化部門が~」の部分が父の担当パート。

当時のワークショップでは日本財団が取り組んでいる電話の手話リレーサービスのことなど、具体的な情報アクセシビリティについての事例紹介なども行われており、初めて父の仕事と私の関心領域がマッチした瞬間でした。

伝えることの意味を考え始める

今でも鮮明に、父にキレ散らかしたことは覚えているんですけど。笑
当時の父は、もう50代だったはず。
怒りをぶつけても、その世代の価値観を変えることは難しいと思っていました。

娘の怒りを買ったとはいえ、自分の価値観を見直して、さらには仕事にしていく父に、娘ながらに誇らしくなった瞬間でした。

もしかしたら、もっとちゃんと伝えていけば、社会に対しても一つ一つパズルのピースを合わせるように、いつかはドミノがパッと倒れるように、世の中が良い方向へ変わっていくのかもしれない。

次の手段はキレずにちゃんとした態度で。笑

理解されるように伝えて、理解してくれた人と一緒に力を合わせたら、一人ではできないけれど、世の中を変えることはできるのかもしれない。

啓蒙活動であったり、普及活動であったり、言葉でいうとアドボカシー活動になるのかもしれませんが、直接的な目の前の人をサポートするだけではなく、事業としてインパクトを残していくことの意味をこの頃から少しずつ考え始めるようになりました。


長くなったので、今回はこの辺で。
その後のことはまた次回。

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