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【エッセイ】田舎の進学校から慶應大学に入ったら

「『慶應大学』出身です。」
と人に話すと、お金持ち、気取っている、生まれながらのエリート、そういうような誇張したイメージを持たれることが多い。
「そういうのは一部の人だけで…、内部進学だけで…、」という言い訳もセットで、この大学のイメージを人々が語る常套句になっていると思う。特に2023年の慶應義塾高校の甲子園優勝時の、団結力や応援の様子などを見ると、愛校心に溢れ、学校に対して(自分たちは、育ちも良く、エリートなのだという)プライドを持っている、そんなイメージがつくのもわかる。一方の自分は、こういう自分の出身校に別の感情を抱いている。

大学進学と共に上京してきたのは、今から10年ほど前になる。引っ越しのためついてきてくれた母親と、家賃6万円の日吉にあるアパートで新生活の準備をしていた。本当は、学校のキャンパスからは2、3駅離れたところがいいと思っていたのだが、部屋を決めたのがギリギリで、あまり考える余裕もなかったので仕方ない。家具付きの部屋を借り、実家からダンボールいっぱいに本やら服やらを持ってきたにも関わらず、全て置いても、それでもスペースが余り、なんとなく寂しい感じだった。日吉駅の無印良品で、こまごました雑貨を買い足した。入学式が終わって、母親が地元に帰ってしまう時、わたしは号泣した。いつも口うるさい、何を考えているのかわからない、とやかましく思っていた母が、いなくなるとこんなに寂しいなんて。涙が止まらず、食事も取れなかった。キャンパスは、田舎町に育った自分は見たこともないほどの人の多さで、毎日毎日ヘトヘトになる。そんな状態で始まった大学生活だったが、2週間もすれば、一応人並みには適応できていた。泣きながら始まった新生活だったが、高校の同級生に誘われて行った新歓が楽しかったこともあり、大学での人間関係をつくるのに楽しくなっていた。毎日のように日吉やら自由が丘で、先輩がいい感じに盛り上げてくれる新歓に参加していた。(コロナを経て、まだあるのかな?そういうの。)

文学部のフランス語選択は、語学の授業が週3もあって、週3は必ず同じ人たちと顔を合わせる。女子が8割ほどを占め、クラス会などがあっても専ら女子会のようだった。そのうち多くが、首都圏に実家があり、実家から大学に通っている子達だった。私立の(いわゆるお嬢様学校的な)女子校出身の子も多い。初めはもちろん、疎外感を感じていた。そもそも標準語もうまく話せないので、歯切れの良い会話もできない。上京する前に揃えた私服は、量産型で自分に似合うものや、自分のビジョンを持って装っている彼女たちと自分は明らかに違っていたと思う。そんなわたしを、おしゃれで垢抜けているクラスの子達は見下すんだろう…そう思っていたけどそれは違った。みんな、ものすごく優しかった。薄い文法書を持って集まるその時間が、そして授業の前後に談笑するその時間は、最も楽しい瞬間だった。(2015年当時なので、当たり前にみんな対面授業だった。)

18年間育った田舎町は、田舎だからかその土地の特性かはよくわからないが、何かにつけて他人をジャッジする雰囲気があった。もちろん、友達選びにそこを考えることはないが、ただ一緒にいて楽しい、面白いことが前提なのだけれど、皆すぐにその子がいい/悪い、を決めがちだった。
容姿、職業、年収、配偶者…(決して人柄、とかではない)そういうことで、あの人はいいだとか、悪いだとか、そういうことをすぐに口に出す。もちろん、そういう親に育てられているわけだから、子供たちもそうだ。
「〇〇ちゃんは、かわいいから…」
「〇〇くんは、かっこよくて、家もお金持ちやし、バイオリン習ってるから…」
「〇〇のお父さんは医者やから…」
「〇〇のお父さんは〇〇の従業員やから、大した稼ぎはない。」(今思えばこんな話、子供が聞いて良い話ちゃうやろ。)
だから、良い、とか悪い、とか。
小学校から高校まで、ずっとそういう世界にいたお陰で、わたしの人を判断する基準は多いに歪んでいたと思う。わたしもまた、相手を所属する学校、偏差値、親の職業なんかで判断していたと思う。

もう一つ。何かにつけて、「〇〇は〇〇の見方だ」/「敵だ」を決めたがる。高校生になってもだ。
「〇〇の〜の考え方は賛成、〜の考え方は反対」というのはダメだ。そいつの味方か、敵か、それだけ。自分が一度敵になったら、その人の考え方に賛同すると、八方美人だのなんだの言われる。大人でもそういう人がいた。その人の言うことは全て否定する。
その街では、評価の対象は考え方、ではなく、人、なのだ。

慶應大学で(というか東京の人?その時のコミュニティは大学だけだったが、後に知り合う他大学の人も大抵そうだったが)出会う人たち、はみな、中身がとても優しかった。田舎町の人々と違っていて、(そもそも人を安易な価値基準で判断しない)何を考えているか?何を目指しているか?そういうところを評価して、共感して、励まし、そして、友達になってくれた。慶應は帰国子女だったり、外国籍だったり、異文化に触れている子も多く、得てしてそういう子達は、人としっかり話してから人の個性を認め、とにかく思いやりがあって優しい。一方で、よくない行動に対しては、それはあまり良くないかも、と意見を述べてくれる。

田舎が全て先に表現したような傾向だとは言わないし、いろいろな環境があり、仕方ない部分もあるのかもしれない。(田舎の人々は、得てして損得を人間関係に持ち込む節がある。閉鎖的で人の少ない共同体では仕方ないことかもしれない。)

しかしながら、慶應でわたしは、はじめて本当に心が優しい子、っていうのに出会ったと思う。

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