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一万年の眠り(4)~狩りの本能


 3番目に大きな相違点として「狩猟」すなわち「狩り」について考える。
狩猟採集民族の生活の中心には「狩り」が存在する。狩りの主な対象は、ゾウ、バッファロー、イノシシ、カバなどの哺乳類だ。ヒトはこれらの動物を狩るプロセスで、俊敏さ、決断、スリル、残酷さ、生命の尊厳、恐怖、達成感といったものをトータルに体験する。現代社会に生きる私たちがこのような体験をする機会はなかなか持てない。これが3番目の大きな相違点だ。

狩りの代償行動

 この狩りの代償行動として、現代人は、①スポーツ②買い物③ゲーム④投機などを行っているように思われる。中でもサッカーやラグビーなどの球技が高い人気を博するのは、この狩りの本能をかなりの程度満足させるからだろう。実際、サッカー選手が仲間にパスをしたり、ゴールに向けてシュートを放つ姿は、ピグミーが獲物を追いかける姿によく似ている。
 この獲物をゲットする本能が、このような合法的な代償行動で満足させられれば良いのだが、それができずに法の外へはみ出してしまうと、スリや万引き、強盗、殺人などの犯罪行為にエスカレートし、社会秩序の崩壊へと向かう。その最悪のケースが国家間の戦争である。 

狩りの対象は人間?!

 そもそもこの現代の狩りの代償行動には、根本的な問題がある。それは、戦う相手が他の動物ではなく、同じ人間だという点だ。牛や馬を相手にスポーツやゲームを挑む者はいない(スペインの“闘牛“は例外)。従ってどのような場合でも、エスカレートして問題がこじれると、必ず暴動やテロ、紛争などに行きつき、犠牲者が出ることになる。サッカーの試合で選手同士、サポーター同士が興奮して殴り合いを始めるのはよくある光景だし、偽ブランドのバッグを100万円で買わされた客が、思わずカッとなって店主をピストルで射殺したというような事件も、世界中で繰り返し起こっている。
 他の動物の場合はどうか?例えばオオカミなどは、同種間のなわばり争いにおいて、本能的な抑制が働くことが観察されている(闘争で勝ったオオカミが相手の喉を噛み切ろうとしてもできない、など)。この本能の抑制が人類には欠けていて、人為的な抑制(例えば警察や軍事同盟、核抑止力など)に依存しているのは、もはや生物としての欠陥だと言っても良いだろう。

希望的仮説

 「サピエンス全史」によると、考古学者の間では、狩猟採集社会について以下のような2つの仮説がある。

A)古代の狩猟採集社会は平和な楽園であり、戦争や暴力は、農耕革命に
  よって人々が私有財産を蓄え始めた時に初めて現れた。
B)古代の狩猟採集民族は、その後と比べても並外れて残忍で暴力的だっ
  た。


 この2つの仮説は今でも対立し、論争が続いているようだ。但し、どちらの説にもそれを支持するに足る決定的な証拠(遺物or人類学的観察)がない状況だという。
 筆者はどちらかというと、A)仮説を支持する。これまで述べてきたように、
・狩猟採集民は食物を得るために他の動物を狩っていた。
・農耕・牧畜革命後は、その狩りは原則不要になり、ヒトが狩りをする衝動は空回りするようになる。
・一方で、他の部族が蓄財したり、王様が民衆から搾取したりする行為に怒りがこみ上げ、この狩りの本能の代償行為として、他人への暴力や闘争に及ぶようになった。
…と考える方が首尾一貫しているように思えるからだ。しかし結論はまだ出せない。
 いずれにしろ、ヒトは次の進化のターゲットとして、「狩りの代償はスポーツや買い物で消化し、間違っても核ミサイルのボタンに手をかけない」ような新たな抑制機能を獲得する必要があるだろう。

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