復帰50年、変わらぬ沖縄の現実-ルポ再録

 5月15日。今日、沖縄の”本土復帰”から50年を迎えた。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。しかし、同条約によって沖縄は日本本土から切り離され、引き続き米軍の統治下に置かれた。沖縄の施政権が日本に返還されたのは、それから20年後のことであった。

思い出した13年前のある事件

 今月8日、沖縄県北谷町の国道58号線で米軍普天間基地所属の海兵隊上等兵が運転する乗用車が歩道に乗り上げ、歩いていた男性をはねる事故が起きた。歩いていた男性は意識不明の状態で沖縄本島中部の病院に搬送されたが、同日死亡が確認された。
 在日米軍基地(専用施設)の約7割が集中し、約5万人の米軍関係者が暮らす沖縄では、こうした事件・事故が日常茶飯事だ。昨日も、前出の事故の現場から約30メートルの場所で、米海兵隊3等軍曹が運転する乗用車が歩道に乗り上げ、車が大破。3等軍曹が死亡する事故が発生した。
 これらのニュースを目にして私は、今から13年前に沖縄の読谷村で起きたある事故のことを思い出した。
 2009年11月7日早朝、読谷村で散歩中の66歳の男性が米陸軍特殊部隊「グリーンベレー」所属の2等軍曹にひき逃げされ、死亡する事故が発生した。
 その日の午後、現場近くの自動車修理工場に、フロントガラスが割れ血液が付着した米軍関係者の車が持ち込まれ、おかしく思った従業員が警察に通報したことから容疑者が特定された。
 日米地位協定の規定に基づき2等軍曹の身柄は米軍側に置かれていたが、沖縄県警は米軍の協力を得て容疑者を任意で事情聴取する。ところが、2等軍曹は沖縄県警が作成した調書が「ニュアンスが違う」として反発。「取り調べの全課程を録画し、米軍法務官の立ち会いを認めるまでは、今後事情聴取には一切応じられない」と主張したのである。米軍当局も「日本側からの出頭要請があっても、本人が拒否した場合、命令はできない」とこれを追認した。
 以後、捜査は行き詰ってしまう。ひき逃げ(道路交通法の救護義務違反、事故不申告)で立件するためには、本人が人をひいたという認識を持ったことを立証する必要があるからだ。しかし、早朝の事件で目撃者もおらず、本人への取り調べも行えないとなると、立証は難しい。物的証拠を得ようと二等軍曹の血液や唾液などの提出も求めたが、これも拒否される。
 このような事態に、県警本部長は「米軍手中の被疑者の出頭が確保されないことは、全くの想定外の事態だ。県警としては全力を挙げて事実を究明し、適切な判断が司法で行われるよう努力を継続する。警察としては、いわゆる逃げ得を許すわけにはいかない」(県議会での答弁)と語った。
 こうしたなか、沖縄県民の不満は日に日に高まっていった。沖縄県議会は日米地位協定の抜本的見直しを日米両政府に求める決議を全会一致で採択。事件のあった読谷村では、村長を実行委員長にして「米軍人によるひき逃げ死亡事件に抗議する読谷村民総決起大会」が開かれ、約1500人の村民が参加した。
 私は当時、米軍・米兵による事件・事故について追いかけており、読谷村にも足を運んで村民や村長に取材した。
 取材して感じたのは、沖縄の人々のマグマのように積もり積もった怒りであった。なかでも印象に残ったのは、「(沖縄の状況は)復帰前と何も変わっていない」という声であった。
 私はそこで聞いた地元の人たちの声を、ルポ『日米密約 裁かれない米兵犯罪』(岩波書店)の中に記した。沖縄の復帰から50年を迎えた今、改めて多くの人にこれらの声を伝えたいと思ったので、ここにその箇所を再録したい。

ひき逃げ事故があった現場には花が置かれていた=沖縄県読谷村(2009年、筆者撮影)
村長が実行委員長となって開かれたひき逃げ事件に抗議する「読谷村民総決起大会」

「復帰前と変っていない」「とにかく沖縄人はやられ損さ」

 村長を村民大会開催へと突き動かした「村民の怒り」。それがどれほどのものか実感するため、私は被害者の男性が生前住んでいた伊良皆部落を訪ね、おもてに出ている住民に話を聞いた。
 ちょうど出かけようと自宅の門前に立っていた70歳代の女性は、次のように話してくれた。
 「犯人が基地に逃げちゃえば最後さ。基地がある限り、こういう事件はまた起こりますよ。村は(基地を)撤去しなさいって言っているけど、軍用地主は基地でうるおっているから、簡単じゃないさ。(日本に)復帰したら基地減るかと思ったけど、減らなかった。とにかく沖縄人はやられ損さ」
 「沖縄の言葉でいうと、本当にワジワジー(イライラ)するさ」――こう語るのは、畑で農作業をしていた65歳の男性だ。数年前に退職するまで、約40年間、米軍基地内で働いてきたという。 
 「こういう事件が起こると、またかという感じがするよね。沖縄県警が捜査しようとすると、すぐ地位協定の壁にぶつかるでしょ。逃げ得だってできる。復帰前からあまり変わっていないんじゃない? あの頃は、(犯人が)軍法会議にかけられても、ほとんどが無罪だったからね。すぐそこでも、米軍機からトレーラーが落ちてきて、小学生が死んだことがあったからね」
 1956年6月11日、米軍が読谷補助飛行場でパラシュート物資降下訓練中、小型トレーラーがターゲットを大きく外れ、住宅地に落下。自宅の庭先で遊んでいた小学校5年生の棚原隆子さんが下敷きになって死亡した。彼女が通っていた小学校で約1万人が参加しての県民大会が開かれるなど、危険な演習中止を求めて激しい抗議活動が行われるが、米軍はその後もパラシュート降下演習を継続した。
 「みんな怒りが溜まって、そのうっぷんを晴らすために、コザ暴動が起こった……」
 男性はそう語り、視線を地面に落した。
 米軍基地の現状について、ずっと米軍基地で働いてきた立場からどう思うか尋ねた。
 「複雑だよね。自主経済ができていないから、米軍基地で働くしかなかった。この辺りは、期間の長短はあっても、大抵の人は基地で働いた経験を持っている。生活のために今すぐ基地がなくなったら困るけど、みんなずっとこのままでいいと思ってるわけじゃない。地位協定も早く改定しないといけないよね」
 商店の前に腰かけていた90歳の老人男性は、沖縄戦の体験者であった。防衛隊に動員され沖縄本島南部の島尻で地上戦に参加、「なんであの雨のような銃弾に自分だけ当らなかったのか、今でも不思議でしょうがない。一緒に水くみをやった仲間は、みんな当って死んでしまった」と話す。戦後は朝鮮戦争の頃、嘉手納基地で2年ほど働いた経験もあるという。
 「アメリカさんの事故はしょっちゅうですから。これはもう安保のせいというか、基地がある限りなくなりませんよ。地位協定も同等な条約じゃないですから。戦争に負けて、向うが有利な立場で結ばれている。だいだい、戦争になれば基地があるところが真っ先に攻撃されるんです。私たちは沖縄戦でそれを経験している。将来のために、地位協定もだけど、基地をなくした方がいいと思います」
 話を聞くことができたのは10人ほどであったが、村民が、日米安保や米軍基地への賛否を超えて、今回の事件や不平等な地位協定に対して怒っているのは確かなようだ。しかもその「怒り」は、今回の事件に関してだけではなく、連なりそして幾層にも重なりあった過去の忌まわしい記憶とともに、一人ひとりの心のなかに蓄積されていると感じた。(拙著『日米密約 裁かれない米兵犯罪』より)

どうしたらこの現実を変えられるのか

 私は少しでもこの現実を変えることにつながればと思ってこの本を書いたが、結局、あれから12年経っても沖縄の現実は何も変わっていない。日本政府は、日米地位協定の改定に向けて米政府に交渉を提起することすら拒否し続けている。忸怩たる思いで一杯だ。どうしたら、この現実を変えられるのか。自分に何ができるのか。
 これからも考え続け、行動し続けるしかない。


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