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政府が「ない」と説明してきた浮島丸事件の「乗船者名簿」、やはりあった!

 終戦直後の1945年8月24日、日本に強制連行された多数の朝鮮人らを乗せた海軍特設艦(*)「浮島丸」が京都府の舞鶴湾で沈没し、500人を超える犠牲者を出した事件をめぐり、これまで日本政府が「存在しない」と言ってきた乗船者名簿の存在が明らかになりました。厚生労働省が3月、私の情報公開請求に対して開示しました。

 概要はこの共同通信の記事の通りですが、私のnoteでは開示請求を行った当事者の視点でもう少し詳しく解説したいと思います。
 
*特設艦とは、民間の船を海軍が徴用して運用した艦船のこと。浮島丸は1937年に大阪商船株式会社が阪神~沖縄航路用の貨客船として建造したが、1941年に海軍に徴用された。

舞鶴湾に沈没した海軍特設艦「浮島丸」

浮島丸事件とは

 「浮島丸」は終戦1週間後の8月22日夜、青森県下北半島の大湊港を出港しました。乗船者の大半は、日本の戦争遂行のために軍に徴用され、朝鮮半島から日本に強制連行された人々でした。一部、軍から工事を請け負う民間業者に雇用された朝鮮人やその家族などもいました。
 太平洋戦争中、大湊には海軍の警備府が置かれ、当時日本の領土であった南樺太や千島列島を含む北方警備の拠点とされていました。大湊警備府は、地下司令部や隧道(トンネル)、艦艇を修理する大型ドック、飛行場などの軍事施設を整備するために多数の朝鮮人を強制動員(徴用)していました。
海軍省は8月20日、全部隊に朝鮮人などの徴用を解除するよう指示します。大湊警備府はいち早く徴用解除した朝鮮人を朝鮮半島に送還しようとし、22日に浮島丸を釜山に向けて出港させたのです。
 ところが、浮島丸は釜山に直行せず、24日の午後5時過ぎに京都府の舞鶴湾に入ります。連合軍からの命令で、24日の午後6時以降、大型船舶の航行が禁止されたためでした。浮島丸は海軍運輸本部からの緊急電報で、最寄りの軍港に入港するように指示されます。 
 舞鶴湾に入ったところ、浮島丸は突然大きな爆発に見舞われ、船体が真っ二つに割れて沈没しました。
 朝鮮人の多くは船倉(貨物を積み込む場所)にいました。爆発で船底が損傷し、朝鮮人らは猛烈な勢いで船内に入り込んできた海水に飲み込まれていきました。その時の模様を、浮島丸乗組員だった長谷川是・元三等兵曹が次のように証言しています。

爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう、その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだのです。なんと水がごうごうと渦巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて『アイゴー!』と叫んでいるんです。そして水の中に飲まれていきました。地獄でしたね…」

金賛汀著『浮島丸・釜山港に向かわず』

 日本政府の公式発表では、浮島丸は米軍が舞鶴湾に投下した機雷に触雷して爆発・沈没し、524人の朝鮮人が死亡したとされています。

乗船者名簿はないと言ってきた日本政府

 しかし、この日本政府の公式発表は韓国や北朝鮮では全く受け入れられていません。受け入れられていないのは、爆発・沈没の原因にしても、死亡者数にしても、その裏付けとなる証拠やファクトを日本政府が示していないからです。
 爆発・沈没の原因究明には船体の調査が不可欠ですが、日本政府は船体を沈没現場に5年以上放置した挙句、引き揚げた際も原因究明のための調査を行いませんでした。そのため韓国や北朝鮮では、疑惑が疑惑を呼ぶ形で、日本海軍が戦時中の朝鮮人虐待を隠蔽するために浮島丸を自ら爆沈させたという「自爆説」が強く唱えられてきました。
 死亡者数についても、524人という数字の根拠は不明瞭です。
 1990年代、浮島丸事件の犠牲者の遺族らが日本政府の公式謝罪と賠償を求めて日本で裁判を起こしました。その裁判の中で日本政府は「死没者名簿」を開示(氏名のみ)しましたが、どのようにこの名簿が作成されたのかについては「不明」としました。
 常識的に考えれば、「死没者名簿」は「乗船者名簿」から生存者を除いて作成したと推定されます。しかし、肝心の「乗船者名簿」が「存在しない」と日本政府は説明してきたのです。
 日本政府は浮島丸には3735人の朝鮮人が乗船していたと説明してきましたが、それを裏付ける「乗船者名簿」は存在しないというのです。これでは犠牲者の遺族を始め韓国や北朝鮮の人々が納得できないのは当然です。
裁判の中で、原告らは次のように主張しました。

「日本国は乗船者名簿についても「ない」と述べるだけで、何の調査もしようとしないが、死亡者の特定が為されていないからには、乗船者数は死亡者数の根拠となる最も重要な事柄である。日本国は、乗船者3735名が確かな人数である事について最大限の調査を行い、可能な限りの説明をする義務がある。それは、たとえ事故が不可抗力であったとしても、死者に対する最低限の礼儀である」

2001年1月25日、原告最終準備書面

 至極当然の主張です。
 このように日本政府が説得力のある証拠やファクトを示してこなかったために、韓国や北朝鮮では、乗船者数も死亡者数も日本政府の公式発表よりもはるかに多いと考えられてきました。
 韓国政府(国務総理室所属の「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会」)が2010年に取りまとめた「帰国船浮島丸の沈没事件に関する真相調査報告書」も、乗船者名簿の存在が確認されておらず、生存者が乗船者数を7500~8000人と供述していることから、日本政府の公式発表は受け入れ難いと結論付けました。死亡者数についても、実際には524人をはるかに上回ると推定しています。

 やはり乗船者名簿はあった

 ところが、日本政府が「ない」と説明してきた「乗船者名簿」は存在していました。厚生労働省が保管していたのです。
 私の情報公開請求に対して厚生労働省は3月中旬、大湊海軍施設部が作成した「乗船名簿」と日本通運大湊支店が作成した「浮島丸乗船朝鮮人名簿」の2点を開示しました。他にも、まだ開示されていませんが、海軍三沢飛行場で働いていた朝鮮人や日本通運以外の企業で働いていた朝鮮人の乗船者名簿の存在も確認されています。
 なぜ、実際には存在する「乗船者名簿」を、これまで「ない」と言ってきたのか。日本政府には説明する責任があります。
 厚生労働省は共同通信の取材に、今回開示したのは事件後に国が改めて調査して作成した乗船者名簿であり、前出の裁判の中で「ない」と言った「乗船の際に作成された名簿」とは「別物」と弁明しました。
 しかし、裁判で原告らが提出を求めたのは乗船者の氏名等が記録された名簿であり、事件後に作成されたものだからそれに該当しないというのは詭弁です。真相究明を求める原告らの思いに応えるためにも、存在する名簿は出すべきでした。
 前出の裁判の中で、裁判を主管する外務省は浮島丸事件関係文書を保管する厚生省(当時)と文書の取扱いについて協議しています。このことは、外務省が私の情報公開請求に対して開示した裁判関係の文書によって判明しました。
 例えば、1994年7月4日に外務省の北東アジア課が作成した「浮島丸関係資料の取扱いについて(厚生省よりの合議)」というタイトルの文書があります。しかし、A4用紙で14枚ある文書のうち、開示されたのはタイトルだけで、残りは全て不開示とされました。
 当時、外務省と厚生省は乗船者名簿の取扱いについても協議していたのではないか――そんな疑問が浮かびます。
 この点についても、外務省と厚生労働省は答える責任があります。

厚生労働省が開示した大湊海軍施設部作成の「乗船名簿」


裁判の最中、外務省と厚生省が浮島丸関係資料の取扱いについて協議していたことを示す外務省の開示文書。

不完全だった乗船者名簿

 存在していた「乗船者名簿」ですが、全ての乗船者を網羅する完全な名簿ではなかった実態も見えてきました。
 私は厚生労働省に対し、乗船者名簿以外の関連文書も開示するよう請求しました。文書は膨大にあるため、まだごく一部しか開示されていませんが、新たに判明した事実がいくつかあります。
 一つは、「海軍施設協力会(*)大湊支部」が作成した乗船者名簿が浮島丸沈没時に喪失してしまった事実です。
 名簿は3通作成されましたが、3通とも「引率者」として朝鮮人元徴用工らと共に浮島丸に乗船していた海軍施設協力会大湊支部の支部長が携行していました。そのため、沈没時に荷物と共に行方不明になってしまったのです。
 
*「海軍施設協力会」とは海軍の施設整備に従事する民間建設業者を統括する団体で、ここが海軍から一括受注して会員企業に工事を割り当てていた。
 
 もう一つは、出港時の混乱に乗じて船に乗り込んだ名簿に記載がない朝鮮人の正確な人数が分からなくなってしまった事実です。
 厚労省が開示した文書には、次の記述があります(※現代表記に直しています)。 

「終戦時の混乱時機において一途に朝鮮に帰国することを願い、船の指令も待たず強引に便乗したもの少数あった模様なり。当時、船側において右便乗者の追加名簿を作製したものの、舞鶴で沈没の際喪失した為、その氏名員数等判明するに至らなかったことは遺憾とする所なり」

1946年4月19日付、大湊地方復員局長官発、第二復員省総務局長宛文書

 なお、この文書では、氏名が分からなくなってしまった便乗者の人数を「70人程度」と推定しています(ただし、別の文書では「200~300名あったらしい」と記されています)。

在日朝鮮人連盟との交渉

 一方で、厚生労働省が開示した文書群からは、浮島丸の沈没後、当時の日本政府が正確な乗船者名簿を整えようとしていた様子も読み取れます。
当時、日本政府は浮島丸事件で死亡した朝鮮人のうち元徴用工を軍属とみなし(*)、当時の規定(傭人扶助令)に基づき、600日分の給与に当たる1200円を「扶助料」として遺族に支払うことを決定していました。
 
*すでに徴用を解除していたため、正確には軍属の地位にはなかった。
 
 ただ、朝鮮半島にいる遺族への送金が難しかったことから、遺族扶助料は在日朝鮮人連盟を通して支払う方針でした。ところが、死亡者数の根拠となる乗船者数をめぐり日本政府と在日朝鮮人連盟の見解には大きな隔たりがあり、交渉はなかなか合意に至りませんでした。
 そんな中、日本政府は正確な乗船者名簿がないことが在日朝鮮人連盟との交渉の「弱点」と認識していました。
 1946年3月に第二復員省総務局長が大湊地方復員局長官に宛てて発出した文書には次のように記されています(※現代表記に直しています)。

「本件交渉の経緯に鑑み、当方としての弱点は浮島丸乗船朝鮮人の正確な名簿を有しない点にあるので、今後の折衝の基礎として貴方(※大湊地方復員局長官)において手段を尽くし浮島丸乗船朝鮮人名簿(施設部工員、日通労務者のみならず、その家族、知人等も乗船した模様につき、これらの人員の氏名が判明しないものは最も正確な員数)を作製し、至急再送付の取り計らいを得たい」

 在日朝鮮人連盟は、生存者の証言などを根拠に、日本政府が主張する乗船者数よりはるかに多い六千数百人が乗船していたと主張していました。これに対して日本政府は、自らの主張を裏付ける正確な乗船者名簿がないことが「弱点」だと自覚していたのです。
 この依頼を受けて大湊地方復員局では正確な乗船者名簿の作成を試みましたが、前記の通り浮島丸の沈没時に喪失したものもあり、全ての乗船者を網羅する完全な名簿を作成することはできませんでした。
 日本政府は、不完全ながらも大湊地方復員局がまとめた3735人分の乗船者名簿を在日朝鮮人連盟に送付しました。しかし、これで同連盟が納得することはなく、交渉は暗礁に乗り上げたまま時が過ぎていきます。そして、1949年9月に同連盟がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令で解散させられたため、未解決のまま交渉にピリオドが打たれます。
 日本政府が浮島丸事件で死亡した元徴用工の遺族に支払う予定だった一人当たり1200円の「扶助料」は、ついに遺族の手に渡ることはありませんでした(※日本政府は、韓国籍の遺族の「扶助料」は、1962年の日韓請求権協定で消滅したという見解をとっています)。

日本政府には説明する責任がある

 前記の通り、現在厚生労働省が保管する「乗船者名簿」も、全ての乗船者を網羅した完全な名簿ではありません。
 それでも、存在するのであれば、1990年代に遺族らが裁判で開示を求めた際、開示すべきでした。
 事件は日本海軍が運航する船で起きたのです。乗船者名簿を開示するのは、最低限の説明責任だったはずです。
 私は3年前(2021年)に舞鶴市を訪れ、この事件のことを知りました。 
 戦争が終わり、ようやく故郷に帰れると喜び勇んで浮島丸に乗り込んだ朝鮮人の人々が、祖国の地を踏むことなく500人以上も犠牲になった事実に胸が痛みました。
 この人たちは、日本の植民地支配がなければ日本に来ることもなく、死ぬこともなかったはずです。そう考えると、日本人の一人として、重い責任を感じました。
 これほど大きな被害があった事件にもかかわらず、自分がこれまで知らなかったこと、日本社会の中でほとんど知られていないことにもショックを受けました。
 事件を風化させてはならない、語り継いでいかなければならないと思い、事件について調べ始めました。
 調べていくうちに驚いたのは、日本政府があまりにも説明責任を果たしていないことです。特に、1990年代に遺族の人たちが起こした裁判の中での姿勢は、明らかに誠実さを欠いたものでした。
 原告の方々が望んでいたのは、何よりも真相の究明でした。そのため日本政府が保有する浮島丸事件に関する資料の開示を求めましたが、ほとんど開示しませんでした。それどころか、どんな資料が存在しているのかも明らかにしませんでした。厚生労働省が今回私に開示した文書群も、裁判では開示しませんでした。
 原告の方々が厚生省を訪れた際、対応した担当者は「死没者名簿以外の資料はない。名簿作成の経緯も不明」と冷たく言い放ったといいます(「原告ら第一準備書面」1993年10月12日)。
 今回開示された文書群からは、1945年から1946年にかけての日本政府には、元徴用工の朝鮮人を結果的に多数死なせてしまったことへの責任の自覚が多少なりともあったことがうかがえます。
 徴用解除した人々を軍属扱いにして、軍属の公務中の死亡に対する遺族補償と同じ「扶助料」を支払おうとしたのは、その自覚があったからだと思われます。
 しかし、1990年代の裁判の中では、「浮島丸の爆発・沈没は不可抗力によるもので、日本政府に法的責任はない」という主張に終始しました。
 繰り返しになりますが、日本が朝鮮半島を植民地支配し、朝鮮人を戦争に強制動員(徴用)することがなければ、浮島丸事件の悲劇は起きていませんでした。その意味でも、日本政府には、浮島丸事件について遺族を始め韓国や北朝鮮の人々に最大限の誠意をもって説明する責任があります。
 今回、厚生労働省が過去の裁判では存在しないと言っていた乗船者名簿やその他の浮島丸事件関連文書を開示したのは、評価できます。これを機に外務省など他省庁が保管するものも含めて日本政府が保有する全ての浮島丸事件関連文書を開示し、説明責任を果たすことを求めたいと思います。

舞鶴市では毎年8月24日に慰霊碑の前で追悼集会が開かれている。浮島丸が沈没した海に向かって手を合わせる集会参加者(2022年8月24日)

#NoHateTV Vol.252 - 大間鉄道と浮島丸事件
https://youtu.be/tHDsvoIShhs?si=QxqVS7u4WlZESQto

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