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小説「声」冒頭 小山右人



たった一度の愛の告白に賭けた声


小山右人



「話してごらん?」

私は君に向き合い話しかける。君は首を横に振ったきり、頑なに口をつぐんだままだ。しかめ面に空疎な笑みを浮かべると、鉛筆を胸ポケットから取り出し、机上のメモ用紙に書きつけた。

〈話すと良くないことが起こると、もう一人の自分が脅すんです〉

ぽとりと鉛筆を落とすと、一転悲しげに私を見つめた。その眸は異様なまでに澄んでいるにもかかわらず、まるで生気が感じられない。空無そのもの。

こんなに底知れない怯えに、人知れずおののいている人と、私はかつて向き合ったことがない。しかも、理不尽な理由で。

君は、たった一度の愛の告白を、片思いの女性に拒絶されたことで声を失った。それ以来、君の中に『もう一人の自分』が君臨し、声に出して話すことを固く禁じてきた。僭主的な自分は四六時中君自身を見張り、君が一言でも話そうとすると、救い難い不安にまで突き落とす。

君が再びうっかりしゃべって、魂が傷つくことを恐れ、見張ろうというのか? しかし、君のためを思う善意など微塵もない、冷酷な監視を続けている。一言も言葉を発せられない君は、恐怖の檻に閉じ込められたも同然だ。声に出して話すことは、そこまで魂にとって危険な行為なのか? 声だけは、そんなに特別か? なぜ、声だけが?

私の目顔の問いかけにも、君はまともに応えようとしない。むしろ、手こずって困惑している私を鼻で嗤い、勝ち誇ったようですらある。

「絶対君主に服従し、声を潜めて暮らす方が、まだ仕合わせだとでも言いたいのかい?」

が、君は涼やかな笑みを浮かべるばかり。 沈黙の面接室には、半開きの窓から皐月の風とともに花々の微かな香が漂い、小鳥のさえずりがにぎやかに響いた。


目の前にいる君を、無謀な君主の呪縛から解放し、言葉がすらすら流れ出るようにする。――それが、私に与えられたミッション。言葉にしてみて、私は妙な引っかかりを覚える。

いったい誰に与えられたミッションだろう? 上司のセラピストの指示だから? なぜ君を〈私たちの住む世界〉に引き戻さなければならないのか? そもそも〈私たちの住む世界〉て、何なのだろう?

新参の私にとって、まず自分の足元があやふやなことに戸惑う。そして一方の、君の中に君臨する暴君の果てしない猜疑心に凝り固まった天邪鬼ぶりに困惑し、立ちすくむ。傍若無人のひねくれに、どこから手を付け、懐柔しろと・・・?

先輩でもあり上司でもある棚橋先生は、「まず箸にも棒にもかからないことを経験してみるべきだな」と、私に含みのある言葉を残し、遠ざかっていった。いったい、どういうことなのだ? 立ち往生し失った面目を取り戻そうと躍起になっている私を見透かしたように、君は酷い嘲笑を露骨に浮かべる。

「君は、『もう一人の自分』に脅されていると言いながら、実はグルだったんじゃないかい?」

私が厳しく迫ると、意地悪そうな笑みの中にも、深淵の底から救いを求める表情ものぞかせる。今こそ君に手を差し伸べる好機と、私は飛びついた。が、君は私をあっさりはぐらかす。私は失速し、機を失う。

《君の利益にはまずならない、どこまでも底意地の悪い共倒れ君主といったところなのに・・・》

この理不尽さを、「箸にも棒にもかからない」は意味するのか? いや、所詮何を試みても無駄だと思い知れと、字義どおり言っただけのことか? ならば、この仕事に意味がないし、自らをさえ否定することになってしまうではないか!

私は一念発起、

「君を脅かす敵は、飴もくれずに鞭で嚇すばかりの、付き合って何の得もない暴君なんだよ」

と、一歩踏み込み攻勢をかけてみる。しかし、〈もう一人の自分が、かえってひどく脅すんです〉と、君は私に対する怒りの文字を荒っぽく書きなぐり、逆に依怙地に内へ籠る羽目に。どうやら、真正面から口説き落とそうとする試みは、敵にとっては、かすりもしないどころか、むしろ利する結果になるだけだと思い知らされる。


午後、私たちは中庭の芝生にいた。日光浴と、運動不足解消と、ゲームによる気晴らし。初夏の風の中で、君は、他の様々な境遇の若者たちとさりげなく戯れ、今まで見せたこともない、ごくありきたりの笑みさえ浮かべていた。ただ一つ、完璧な沈黙を守ったきり。

《もしや、牢の番人も、まどろむ気配は読み取れはしないか?》全く新しい局面に、 私は山気をそそられた。

「そら、皆と一緒に、こんなに楽しめるじゃないか。皆、君の味方で守ってくれる。そっとこちらへおいでよ」

と、目一杯友情的な笑みを浮かべ、君を誘い出そうとした。君は微笑み、こちらへ歩み寄ろうとする。が、次の瞬間、影のようなものが私たちの間を過るのを見たような気がした。君は、たちどころに表情を曇らせ、怖いほどの形相で私を睨み付けた。

〈こっそりだまそうとしたから、ものすごく怒っています〉

と、皺くちゃのメモ用紙に書き付けた。もう一人の自分の隙を突いて、君をそそのかした罪は大きいらしい。反動で、君が手も届かぬほど深く敵の陣中に囚われていってしまう感じがする。

生温かな風の中に取り残され、私は、投げ遣りな手つきで青々とした草を抜き、その茎を口に含んで嚙み砕いた。渋い味が舌に沁みた。と、なぜかまばゆい午後の光の中に、これまでの流れとは矛盾した幻想が生まれる。

――私たちが属する圧倒的多数の国から隔たり、絶対君主が君臨してはいるが、人々が幸福に暮らす王国。誰もが声を潜め、糸電話のようなささいな交信手段だけが許された王国。若く繊細な男女が赤い糸で結ばれた素朴な紙筒を手に密かに愛を伝え合い、そして誰も傷つくことのない幸福が、それでも一杯充ちた王国。・・・

久しぶりに羽を伸ばしている君を見ながら、突飛なことを想像している自分は、どこに迷走し出したのかとも思った。が一方、そんなお伽話めいた国が存在したとしてもおかしくはない気がしてきた。君が住む王国は、あまりに個性的で孤立している故に見捨てられ易い。そのせいで、君は、私たちの国で、窮屈な思いをしているだけなのだろうか? まだ始まったばかりの無謀な冒険は、核心からは程遠い幻想を掠め取ったに過ぎないのだろうが・・・。肝心の君は、煮え切らない間を悟ったものか、相変わらず口を一文字に結んだまま巧みに他の若者たちと戯れ、もう私には目も向けようともしなかった。

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