毎日普通のものを撮り続ける意味

今回はエッセイ的な内容になります。

僕は毎日朝起きたら散歩しながら写真を撮る習慣があります。
撮る場所は家の近所でルートも大まかに3パターンしかありません。
それぞれ数百回通ったルートで、いつも撮り続けています。

何を撮っているかと聞かれると結構回答が難しいです。
被写体としては川とか家の前に置いてあるものとか落ちてるものになるのですが、感覚としてはものを撮っているというよりは変化に気づいたらシャッターを切っている感じです。

毎日撮り続けているからこそわかるちょっとした変化は、続けているからこそわかります。
逆に観光地に行くと滝とかわかりやすいものを、やっぱり撮ります。

この朝の散歩しながら撮影という行為自体には意味を求めていないのですが、やっているうちにあらゆることに敏感になった気がします。
物事の細部を見るようになったというか・・・

辺りを見渡して観察しながら歩くことは瞑想に近いような気がしています。
その時間だけは他のことは何も考えず、ただ色んなものを注意深く見ています。

これにより写真が上手くなるとか、続けることで洗練されていった作品に昇華されるとか、そういった効果は全くないと思います。
日々生きる中で意味や目的がないことをするのは難しく、タイムパフォーマンスを求め、最短距離を行きたくなります。
そういう生活からなぜか解放されるのがこの朝の散歩です。

特にSNSにアップするわけでもなく、たまにレタッチの研究素材として使われる写真があるくらいで、
ほとんどは何かに使うことはありません。
もしかしたらフィルムを入れなくても、SDカードを入れなくても(データを保存しなくても)良いのかもしれません。というか実際に忘れることもありますが、気づいても取りに帰りません。

「じゃあ何のために撮るの?」ということを考えることも、また写真についての自分なりの向き合い方を見つける機会にもなっています。

何もしないというのは思いのほか難しいので、とりあえず写真を撮る、でもその写真は使用用途がないので世界から見ると結果的に何もしていない・何も変わっていないに等しい。

そんなことを考えながら、また明日も散歩に行きます。

#日々の大切な習慣


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?