とてもしつこい「名前」の話

今日も些細なことで脳内風水師がうるさかったので(※以下の引用記事参照)、改めて「別名」というものについて少し考えてみたい。

さてこの界隈、芸名を使って活動している人の割合は実際どのくらいなのだろう。なんとなく視認している限りのイメージでは、それほど多くないような気はしている。確かに、わざわざ改まって芸名を付けるタイミングがいつなのかと言われれば、なるほどよくわからない。
本名が読みづらいとか、何らかの事情がない限りにおいては特段必要としないのも確かだ。


自分のケースを振り返ってみる。最初の芸名がついたのは大学時代。所属していた演劇部では活動の際に芸名必須という風習であり、当時名乗っていたのは「Coming Soon」という芸名だった。一応言っておくが自分で考えたわけではない。

入部した際に芸名を考えておけと言われたのだが、いくら考えてもしっくりくるものが思い浮かばない。ついにはそのまま申請期限をとうに過ぎ、フライヤーの出演者欄に「Coming soon…」と書かれてしまったのだ。

偶然の産物、というかただの自業自得だが、結果的になかなかキャッチーな響きが気に入って、そのまま芸名として頂戴した。優柔不断な感じにもマッチするし。


ただ、もしこの時、無理矢理なんらか別の名前を自分で決めていたとしたらどうなっていたんだろうか。いくつか候補もあったと記憶しているが、何にしても違和感を抱え続けていたような気がする。

大学を卒業して以後は、演劇部の芸名を使い続けるのも何となくはばかられ(ファンキーすぎるし)、結局は適当な姓名を自分なりにつぎはぎして現在に至っている。それが未だに漠然としっくり来ていないのは先述の通りである。

つくづく思うが、おそらく僕は芸名をつけるのが苦手だ。自分で自分に別名をつけるという行為に、なんとなくの気恥ずかしさというか、むず痒さのようなものが常につきまとうのである(まあ、大抵の人がそうである気もするが)。
結果それが「しっくりこない感」に繋がっていくのだろう。大学時代の名前は、そこに自分の意思が介在しない、降って湧いたものだったからこそ馴染んだのだ。



名前とはそれ自体が「意味」であるため、即ち名付けとは「表現」の一環である。脚本や作品を作るにもタイトルは大事だ。表現はそこから既に始まっている。

であれば、つまり特段の理由なく芸名を付けようとする事は、作品や役ではなくそれ以前のものとしての「自分そのもの」を特別に表現しようとしているに近い。
わざわざ自分像を綺麗にコーティングしようとしてるとでも言おうか。多少、自意識が前方へ進みすぎの感がある。独特の気恥ずかしさは、おそらくそこからくるのだろう。

一応「自分」ではなく「役」を表現する活動をしている者として、それはいかがなものかとも思うのである。そこはこだわるべきポイントじゃねーだろう、と。

これまた先述記事に書いた、本名嫌いと自信の無さに端を発し、「自分」の何かを覆い隠しておきたいんでしょうね。だから、何かうまくいかないことがあるたびにペルソナの上塗りをしたくなる。

もう、いっそ脳内のデブリを掃って原点回帰という意味で、このあたりで本名に戻るというのもアリかもしれない。などと考えたところで、それは結局名前にこだわって変化をつけようとしていることに違いはないと、はたと気付いた。無限ループって怖いね。

底の浅い人間ほど、自分になにか特別の「意味」を見出そうとし、「名」にこだわる。さもあらん。
たどり着くのは、どうあがいても悲しい現実であった。

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