◼️テーマ「月曜日」

「月曜日」に対してどのような印象があるだろうか。
ものすごくベタな話をすれば、ブルーマンデー症候群という俗語もあるように、休日明けで憂鬱なものだと相場が決まっている。

僕も確かに月曜日と言われれば、半ば条件反射的に嫌な気持ちになってしまう。が、それは何故なんだろう。相場が決まっていると言われれば、そこに疑義の念を抱いてしまうのが悪い癖である。

よく考えれば、僕の今現在の仕事では土日の固定休ではない。そもそもリズムが違うのだから、必要以上に月曜を重く捉えなくてもいいはずである。重ねて言えば、別に休もうと思えば休めるし。少なくとも自分の意思で休みを取ることができないようなブラック職場ではない…はずだ。ある程度は自分で環境調整もできるのだから、やはりさほど月曜を悲観的に受け取る必要はない。
そもそも極論をいえば、一週間の区切りなんてもの自体が人間が勝手に作り出した概念であり、そこに意味を見出し別の感情を乗っけるのもまた人間である。ご丁寧にそれに乗っかってマイナスな固定観念を抱く謂れはない。

改めて、自身の月曜の精神状態を振り返ってみると。実際には別段憂鬱な気分にはなっていないことに気付く。むしろ前日の日曜が休みだった場合、その分のメンタル回復の貯金があるので、週の中では最も気分が楽なくらいだ。


この月曜への嫌悪感という固定観念はいかにして生まれるか。考えるまでもない。月曜から金曜までは嫌なことをして、土日に休む、という「世間の大多数の枠組」があるからだ。
すべてのはじまりは「学校」であり、以降ずっと、同じくそのシステムの中で社会は動いているからだ。

この点、基本的には社会に適応していない僕からすれば、ちょっと物申したいというか、そういう世間のことわりを真っ向否定したいところではあるのだが…社会のシステムが事実そうなっている以上は、まあ何を言っても始まらない。
なかでも学校については仕方ないだろう。まさか教育が不要なわけもなく、まだ未成熟な子供をある程度の強制力のもと社会のレールに乗せておくのはやむを得ない。そして同時に子供にしてみても「嫌なことを強制されている」という感覚を持ってしまい、月曜にネガティブな印象を抱くのは自然なことだ。なのだが。


予め断っておくが、この先の文は概ね自戒というか、自分に向けて言い聞かせている側面がおそらく強い。誰に向けて言っているとかではないのでご理解いただきたい。

さて前述の通り、子供なら仕方ないのだ。未成熟だし、まだ自活という概念がないから、社会システムの強制力のほうだけに意識が向いて学校が憂鬱になる。しかし、自立した大人になってなお同じ感情を持ち続けているというのはおかしいのではないか。

引き続き大多数が月〜金の社会システムに乗って生きているのは仕方ない。しかし、それによって大人は自活をしている。大切なことは、そこには誰からの強制力も働いていないということだ。憂鬱と思うのは感情の問題だから仕方ないが、それを拭い去るだけの思考と選択肢を大人は既に持っているはずではないのか。本来ならば逆のはずなのに、なぜ人は歳を重ねれば重ねるほど、自分の人生と環境が何らかの強制力によって固定化されていると感じてしまうのか。
大人は自分の責任において、環境を調整し自分の機嫌を取らねばならならず、それこそが大人の自由の証であるはずだった。

年相応の、とか、身の丈に合わせて、とか、社会人らしく、とか。もはや言わずもがなの、この国のそういう同調圧力。それがどんどん人の感情と行動の幅を狭め、「大多数の枠組」を作っていく。固定された月曜日への固定観念もそういうところから生まれてくるのだろう。
「仕事が憂鬱」にとらわれないフラットな一週間の過ごし方は必ずあると、とりあえずそこまでは考え至っている。
さて、どうだろう。

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