積荷のないトラック

最近このように文章を書いて投稿するようにし始めたのは、ひとえにアウトプットのリハビリである。
もとより文章を書くのが好きかと言われれば決してそうではないのだが、ただ最近どうにも「物事を発信する」というムーブに対応する脳の筋力が、どんどん衰えていっている危機感があったのだ。

僕はもともと脚本を書いたりなどの活動はあまり積極的には行っていなかったが、少し前にひょんなことから、かなり前から放置したままのシナリオの完成を目指してみようと久々に創作と向かい合ってみた。ところがこれが、まあ自分でも逆に感心してしまうほど筆が進まない。文章力も筋肉と同じ、使わなければみるみる衰えるという言葉を身に染みて感じたのだった。

なので、まずはどんな形でも、面白くなくても構わない。とにかく自分の脳内にあるものを短いスパンで形にしていくところから始めようと思った次第である。


と、ここまで書いてきたところで。このような説明を改めてしていることには、もうひとつ意味があるような気がしてきた。即ち自分に対するガチガチの予防線である。

いつもなんとなく考える。こうして発信している文章、これはいったい誰に届いているのだろう?
純度100%の一般人による、文字通り愚にもつかないエッセイもどき。特に面白いポイントもない。そもそも需要なんてものが存在していないのは自明の理である。誰が興味あるんだ。

当然の流れとしてこのnoteを多くの人が読んでくれている形跡などないわけなのだが、そこに意識を向け始めると、発信のモチベーションが瞬時に地に落ちてしまう。いったい何の意味があるのかと。そしてさらに一歩進んで、ならば自分の脳が今動いていることにすら意味がないんじゃないかと自閉していくのだから始末が悪い。

ゆえに事前に「これは元々誰に見せるつもりでもないものだし、読まれてなくてもいいんだよ!」と必死で自分に言い聞かせておく必要があるのだ。



しかし考えるほど面倒な話である。
意見発信や、ましてや創作など、その入り口は誰でも大なり小なり自己満足だ。だからそれでいいはずなのだが、僕こと承認欲求の権化にとってこの自己満足こそが面倒な代物。何か発信したことに対する満足の要因など、9割くらいは反応を貰えることしか思い浮かばない。

イイネやRT、反応をもらいたいがためだけにSNSを使うことの不健全さを訴える声は、もはや人口に膾炙している。それ自体はもっともな話だろう。

しかし同時に、だったらどうすればいいのだ?とも思うのだ。全く反応を欲しない、他人がどうであれ関係ないというのであれば、そもそも発信する必要などないではないか。なんのためのSNSなのだ。

まあ当然、そこは限度の問題だよということなのだろうが、僕にとっては如何せんそのバランスのとり方が難しい。発信を行う上での気持ちの置き所みたいなものが、ずっと解らないのである。どうしても0か100かの発想になってしまう。

そんなわけで僕が文章を書くときの目下最大の課題は、承認欲求からくる「少しでも面白いこと書こう!上手いこと言おう!」と盛ろうとする衝動に抗うことだ。これに負けると、文章が途端にお寒いことになる。極力衝動だけで書き終えることが大切だ。

いったん客観的で冷静な思考に帰りたいときは、行ったことある整骨院から送られてくる月だよりや、セレクトショップのスタッフブログの類、社内報のお楽しみコーナー、なんかを見るのがおすすめです。特に体育会系、みんな仲良し!系の店の。

ああ。
面白いことを書こう!笑かそう!おもろいで!と頑張ってしまったんだなあ。と感じられる文章率が高いです。つまり何とは言いませんが。明言を避けますが。

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