◼️テーマ「短歌考察」

エッセイリレー、少しイレギュラーな今回のお題は「永遠万里子の既作短歌をいくつか取り上げ考察を述べる」。

https://note.com/pantystockings31
↑ 永遠万里子の短歌まとめ


さて、しかしどうにも僕は考察という行為が不得手であるようだ。その理由はおそらく、自分がどこまでいっても自分の直感でしか物事を捉えられないからである。直感すなわち感覚的な瞬間の印象であらゆるものを測っている節がある。なので他人の表現を目にしたとき、それを理論立てて考え、ましてや相手の立場に立ちその意図や感情を読み取るということなど、ほぼ行ったことがない。

ゆえに、初っ端からさっそくテーマから外れてしまうようで恐縮なのだが、ここでは主に僕自身の直感の話になってしまうであろうことを予めご理解いただきたい。


ということで、僕の直感から見た永遠万里子さんの短歌なのだが。
誤解を恐れず言わせていただくと、実はちょっと苦手なのである。

どの歌も、見た瞬間になんとなく直視できないような、むず痒いような、そんな感覚に襲われてしまう。心がざわつくとでも言うんだろうか。

この感覚の謎をしばし直視して考えてみたのだが、ひとつ思い至った結論らしきものはこれだ。
「そこに紛れもない“人間” が描かれているから」。

「生身の人間」を短歌からどうしても強く感じてしまう。そのとき僕が対峙しているのは短歌。ありていに言えば、ただの一つづりの文章に過ぎない。それなのに何故か、形ある人間と向き合っているような気がしてしまう。元来人見知りで、人と向き合うことに少しの抵抗がある自分が人と対峙する、そのときの感覚が呼び起こされる。非常に不思議な体験だ。

そのとき対峙する「人間」とは誰なんだろうか。おそらくそれは自分自身にも通ずるナニカだろう。ただ、それは決して空想上の人ではないと解ってしまうのだ。鍵は意志のリアリティではないかと睨んでいる。決して取り繕おうとしていない。決して綺麗ではない。ただそのとき、そこにある「思考」。それがそのまま、ことさらに淡々と、アウトプットされている(ように見える)からこそ「人間」たりえる。

人が人を表現しようとするとき、そこにはどうしても何らかの綺麗なフィルターがかかってしまいがちだと感じている。表現とは時に誇張であり再構築であり、感情や思想も投入され撹拌される。そんな中で人の「えぐみ」のようなものはどうしても溶けて消えてしまっていることが多いのだ。


前置きのようなものが長くなってしまい今更だが、ここでひとつ、やはり直感によってしまうが最も強い印象が残った短歌を引用してみる。

かつてよく呼ばれた渾名に振り返る他人ばかりの梅田地下街

〈未来2020年1月号〉

この人には過去がある。もちろん現在もある。しかし特別なことは何もない。これを今まさに見ている自分にも通じる、普通の現在がある。最後にフォーカスされる梅田地下街という局地的かつリアリティのある風景が、それを際立たせている。この人はそこに、ただ普通にいる。

さらに一本。

トリンプと書かれた裏紙胸に貼りおどける後輩失恋直後

〈未来2020年1月号〉

周囲の人にも当たり前に、人間としての感情があり過去があり現在がある。それを見る本人にも当然その現在と関係性があり、どうやら本人も周囲も綺麗ではなく下品でもあり清廉でもないようだが、しかしそれもまた普通である。生きた人間であるから。

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