「水を縫う」を読んで。~囚われを超えた先にあるもの~
本屋で手に取った瞬間、心が清らかになる感覚に包まれた。たまにくる直感的なサインだと思い購入した。
「男なのに」裁縫が好きな弟の清澄と、その家族に纏わる話である。
「女なのに」かわいいを避けてしまう姉の水青。「母親らしさ」に悩むさつ子。「父親らしく」なれなかった全。「男尊女卑」の時代に育てられた祖母の文枝。
それぞれが世間一般の「普通」に囚われながらも、葛藤や摩擦を繰り返して、少しずつ心の傷を癒し解放をしていくストーリー。
刺繍が好きな弟の清澄が姉の水青のウェディングドレスを作るという話からストーリーが展開されていく。
この本を読む中で、私が一番勇気付けられたシーンがある。
清澄が、父親である全の友人の黒川から、名前(水青、清澄)に込めた思いを告げられるシーン。
「流れる水であってほしい」という思い。
「流れる水は決して淀まない。一度も汚れたことがないのが「清らか」とは違う。だから、動き続けてほしい。進み続けるもの、停滞しないものを「清らか」と呼ぶ。」
「これから生きていく間に、たくさん泣いて、たくさん傷つくんだろうし、悔しい思いをしたり、恥ずかしいこともあるだろうけど、それでも動き続けること。流れる水であってください。」
私たちは「普通」を目指してしまいがちな生き物である。
私の中にも、その「普通」に囚われていることがあったことに気が付いた。
昔から、過干渉気味な親から「「普通」に育ってくれればいいから」と事あるごとにいわれてきた。
けれど、私はこれまで正社員として勤めたこともないし、結婚もしていない。
親の望む「普通」になれていない。これまでのどの選択も納得して選んでいることだけれど、どこかで罪悪感や無価値観が刺激されていないといえば嘘になる。
仕事を変えようとする時や心惹かれる方を選ぼうとする時も、「普通」から大きく外れないようにどこかでバランスを取ろうとしていた。
周りが当たり前に出来ている、「普通」にあわせることに「頑張って」いたのである。
このラインならまだ大丈夫、はみ出さないようにって、基準を作って仕事や物事を選んでいた。
「普通」が当たり前にできる人達とつながることで、「普通」に馴染めていることを「安心」していた。
「普通」からはみ出すことで、拒絶されることが怖かった。
私自身も親から引き継いだ「普通」に囚われていたことに気が付いたのだ。
親が言い聞かせるように「「普通」に育ってほしい」と言ってきたのは、そうすれば子どもが無駄に悩んだり、傷つかなくて済むからという、一つの愛情からだったかもしれない。
私の親も、もしかしたら「普通」に囚われていて、自分を傷つけていたのかもしれないと今なら思える。
これまで、悩んだり、後悔したり、傷ついたり、泣いたりすることもあったけれど、それはすべて次への行動につながる原動力になっていたのも事実。
それらがあったから、今の私があるといえる。
「進み続けるものを、停滞しないものを、清らかと呼ぶ。流れる水は決して淀まない。一度も汚れたことがないのが清らかとは違う。だから動き続けてほしい。」
この言葉は、私のことも「普通」という囚われから、解放してくれた。
私の心に光が差し込み、前に進む道を照らしてくれた。前に進んでいいことを勇気づけてくれた。
「普通」という囚われを超えた先には、何が待っているのだろうか。
「普通」を超え、「自分」を追求し続けた先にいる私は、どんな環境でどんな人達と過ごしているのだろうか。
本屋で初めて手に取った瞬間の心が清らかになる感覚と、読み終えた時の感覚は同じものだった。
心は晴れやかに澄み渡るような気持ちとクリスマスプレゼントを待ち望むようなキラキラとした煌めきに包まれている。
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