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AIによって絵を描くという行為は陳腐化し堕落するか?

最近、Stable diffusion(画像生成AI)をいじっている。

とある制作で画像の自動生成機能を搭載したものを作ろうと考えているからなのだが、そのために手元の環境で試運転を行う必要があった。

去年の8月に試したときは、ネットには玉石混交の情報が溢れかえっておりまともに学習することが難しかったが、今はネット上の情報もだいぶ整理されてきたので、ここ3日くらいで環境構築からプロンプトの書き方まで改めて一通り勉強し、なんとなく使い勝手を掴んできた。

M1 proのMacBookで、約1時間半ほどかけてイラストを出力してみた。

画面の色味と視線誘導を意識して少しだけ修正した。

実際に生成されたものを観察し、修正を加える過程で、画像生成AIについていくつか思ったことがある。


イラストの価値

明確な意味合いやクオリティ、個性を必要としない、「なんとなくそれっぽい画像」が欲しいケースにおいては、もはや人が描いたイラストが選ばれることはないだろう。安い量産型のソシャゲ、グッズ制作、広告画像なんかには持ってこいだ。今までも著作権侵害まがいの行為で人の作品を盗用して制作されたゲームや広告が散見され問題になっていたが、そういった業者はこれからはAIが生成した著作権フリーの画像を堂々と使えば良いので、直接作品を盗用されるケースは減ると思う。そういう意味では、良い影響と言えるかもしれない。最近だとSHEINがデザイン盗用で多くの訴訟を起こされていたりするよね。

アーティストのアルバムのジャケットなんかも、雰囲気重視だったりするとアーティスト自身がAIで自分の表現したい雰囲気を作り上げるのが一番良いので、絵を描くデザイナーやイラストレーターの仕事は不要になる。


逆に、作り手のコンセプト、ストーリー、細かな伏線や意味合いを細かく伝えたいようなケースにおいては、AIだけで完結させることは難しく、人が意図を込めて作り上げるしかない。こういったケースにおいては、AIを有効に活用できる未来が思い浮かぶ。

例えば、「このキャラが纏っている衣服の模様には、このキャラの出身国の文化的特徴が反映されていて…」みたいな設定をイラストに盛り込みたいときは、AIで条件に類似する模様パターンを複数生成し、そこからデザインをペーストすれば良いわけで、作家の知識の範疇を超えたデザインができるようになる。まさに人の能力の拡張といったところか。

実務ベースで考えると、上記のような内容が思い浮かぶ。
量産型の程度の低い仕事においては、AIによるイラストの方が優秀なため低次のイラストレーターは仕事が減る。一方で意図を伝達することを主とする高度な仕事においては、表現したい要素を汲み取って再構築するイラストレーターの技量がより求められ、そしてそういったケースで必要とされる人は、AIによって更なる高みに到達できるようになる。

AIは、「使いこなせる人」と「月並みにしか使えない&まったく使えない人」の間に格差を生むようになるだろう。


絵を描くという行為は陳腐化し堕落するか?

自分が関心あるのは、もう少し哲学的な意味合いの方だ。

商業ベースでの影響について感じていることは先ほど述べた述べた通りで、AIをツールとしてどこまで使えるかによって仕事の有無・稼げる稼げないが変わってくる未来になると思われる。

それ以上に自分が懸念するのは、画像生成AIによって絵を描くことに関心が無くなる人がこれから増えていくのではないか?ということだ。

今までは絵を描くことが仕事に繋げられていた。しかし、今では数年イラストの修行をしてようやく辿り着けるレベルのクオリティのイラストを、数分で文字を打ち込むだけで生成できる時代になった。
もはや自身の力のみで高クオリティの作品を生み出すことの価値は薄れ、絵の上達を目指す人は激減の一途を辿る…。

そんな未来は訪れないだろうか?

絵を描く人間に限らず、何かを作る人間というのは、自らが生み出した作品への承認を糧として生きているようなものである。もちろん、物を作る一番の理由はその過程がたまらなく楽しいからなのだが、それでも周囲からの反応が得られないと、どうしてもモチベーションが下がってしまう生き物だ。
それが初心者からプロにまで通ずる真理なのは、間違いない。


刹那的な楽しさを提供できるAIと
本質的な面白さを提供できる人間

ここで、自分の意見を述べたい。

①作品の楽しみ方

まず、作品(絵に限らず)の楽しみ方には二層あるということだ。一層目は、ただ単に作品のクオリティを楽しむフェーズ。二層目が、作品の背後にあるものまで意識を巡らせて、今一度その作品を見つめ直すフェーズだ。

一層目のフェーズは、エンタメ性や画面の構成力、ストーリーの奇想天外さといった部分を楽しむもの。爽快なアクションシーンや、心踊る大迫力のCG映像、綿密に仕組まれた伏線といった要素を楽しむ部分である。ただしこれは、見たものをそのまま楽しむ子どもや、疲れた時に享受したいといったケースにはうってつけだが、いわば刹那的で表面的な楽しさであり、こういったものはAIによって生成が可能だ。

AIによって生成された小説やプロットは、正直惹かれるものも多くあり、悔しいながらも楽しんでしまったという経験をしたことがある。
しかし、確かにストーリー自体は面白いのだが、ただしそれは表層的な娯楽でしかなかった。読了後の、「で?」という感覚が拭えなかった。
所詮目的もなく空虚に生み出された作品を享受しているにすぎず、読了後、その後の人生に繋げられそうな所感が「AIはここまで進化しているのか」というものしか出てこず、作品そのものから心に受けた影響はそれほど多くはなかった。

そこで気づいたのが、作品というものは、その背後にいる作り手の存在が重要なのであり、「この作品がどういった心境のもと生み出されたのか」とか、「どのような人たちとの関わり合いの中で完成した作品なのか」とか、そういったバックボーンが存在するか否かが、受け手の心情に大きく影響するということだった。

例えば心震える感動作を読んだとき、あるいは感動するほど素晴らしい絵画を見た時でもいいが、それが人の心に感動を覚えさせたのは、その人の人生に少なからず影響を与えたからだ。心震えるほど受けた影響の源泉がどのような「人」によって生み出されたものだったのかということは、実は意識している以上に大きい。

イチローの生き方に影響を受けて野球を始めた人でも、あるいは身近な先輩に憧れて進学先を決めた人でも、その行動の根拠には自分の信じる「人」の行動があったからそのように自分の人生を変えられたのだ。
無目的に生成されたものによって人生に影響を与えられるなんて、なんて虚しいことだろう?

そういった本質的な人間の感受性の構造があるからこそ、自分はAIが生み出す生成物が、楽しい体験の全てを生み出せるようになることは無いだろうと思っている。

ただし先に述べたように、こういったことを意識して物事を受け取るフェーズというのは第2のフェーズであり、往々にして人は第一のフェーズの段階で満足して、それ以上に意識を巡らせないことが多い。

コンテンツが溢れ、より多くを楽しもうとするあまりに、情報を受け取る姿勢が刹那的な姿勢に傾倒してしまい、本質的な部分まで思考して生きることが難しくなってきているように感じる。

AIによってさらに無尽蔵に楽しさが量産されるようになったことで、ただでさえスマホによって思考が短絡的になりつつある現代人が、ますます表層的で短絡的な快楽を求める生物に変化し続けていってしまうのではないか。

そんな懸念が拭えない。


②「過程」に存在する価値

特に絵を描くことについて話すが、上手い絵というものは、この世をよく観察したからこそ描かれる。
絵というものは、まずは特徴、形状、色を捉え、さらに高い次元の話になると、ライティングや物質の透明度、角度による光の散乱や形状の変化等のこの世の理にまで意識を向けつつ周囲の世界を捉え、それを自分の感受性をもとに手元のキャンバスにアウトプットし、表現するものだ。

それは母親の似顔絵を描く子どもの絵でも、天才画家によって描かれる絵画でも同じことだ。

「身の回りを観察し、自分というフィルターを通して表現する」

絵を描くということは、本来はこの過程を得て出力されるものだと、自分は思っている。

上手い絵を見て、「なんでここはこんな色にしてるんだろう」「どうしてこの物体をこんな形状で描いているのだろう」という疑問を抱くことがある。そして実際に自然の中でそれを観察したときに実際にその絵の様になっていることに気づき、先人の観察眼と表現力に感服することがある。

自分は、絵を描くことは身の回りのものを別の視点で捉え直し、物理現象や人の感覚器について思いを巡らすきっかけになる行為だと思っている。

それは人の感受性や創造性を養う上でとても良いことであると感じているし、こういった部分で養われる素養が、自然科学に対する意欲的な姿勢に繋がっていったりするのだと思っている。

何かを作るという行為は、その過程でその人の中に渦巻く思考こそが本質的に重要なのであり、成果物はその内面の成長の副産物でしかない。

そういった意味で言うと、過程を無視して成果物だけをただ量産できるようになるAI技術は、やはり諸刃の剣であると思わざるを得ない。
観察力や創造性が身につく前からAI生成を多用することは、その人の成長の余地を奪うことにも繋がるだろう。

AIは自身の創造性の基盤を固めた上で扱う強力なツールであるべきであり、人の発展を阻害する存在であってはならない。

現代において1歳児でもスマホを触っているように、AIもまた、小さい子どもにも手が届く存在になっていくと思われる。

そうなったとき、AI世代の子ども達の感受性や創造性がどのように育つのか想像もつかない。それが数十年後になって致命的なミスだったとならないように、AIと人との関わり方については、注意深く洞察していきたい。


AI時代がもたらすものと置き去りにするもの

AIは我々に、何ができるんだろうという希望と、行く先の見えない不安感をもたらした。

これからはAIを使うことで、より素晴らしい作品が生まれていくだろう。
しかし、そのときそれを受け取る人たちの感受性は、果たして生き生きとしているだろうか?
溢れる情報の波に飲まれ、自分の時間が取れず、ただでさえ疲弊している現代人に、これ以上の加速的な発展が耐えられるのか?

何が起きるかわからないが、とにかく注意して自分の人生の手綱を握り、無為に、短絡的に生きてしまうことを避けながら生きなければと感じている。


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