何に畏れているのか問い直す
ここの所の報道を見ていると、新型コロナの感染予防や感染拡大の報道ばかりだ。
怖いよね。
でも正直、僕らの年代は症状としては風邪程度なので、自分の事だけを考えると、そんなに怖くはなかったりもする。
ただ症状が出る前の潜伏期間が長かったり、無自覚的に誰かに振り蒔いている「可能性」があるので、そこが怖いのだ。
また政府の学教休校やイベント中止や延期の要請については、感染拡大が怖いというのもあるし、オリンピックも控えてるから早く収束させたいという思いもあると思う。それよりも何よりも、感染が発症した時に責任をとる事が怖いのだと思う。
政府の判断を結果論で否定するわけではなく「人間はそういう生き物なのだ」と、認めること、少し楽になる。
「何かあったら」を予測して、身を守る。
過去を振り返り未来を予測できる人間だからできること。
いずれにせよ、中止要請を出せば、細かい事は各地でそれぞれで判断してもらって、例え何かあっても「コロナに関しては対策しました」と言い訳が立つ。
なんども言うがここの部分は
コロナ自体の怖さよりも責任をとる畏さに置き換わっている様に思う。
そして「政府が要請を出した」=「コロナやばくね」という認識を我々が勝手にしてしまい、不安が募る。
そして過剰な報道がブースターとなってますます目に見えないモノに対して畏れが増す。
昨日も書いたが、不安や畏れは人間の弱い部分を露呈させる。
不安や畏れが万延している現在できることはなにか?
仏教では「無畏施」というものがある。
布施の一つである。
まず布施から話そう
布施には3種類
布施とは「施し」をすること。
現在ではお坊さんがお経を読んだ後の「御礼」という風に認識されているかも知れない。
その御礼のとしての布施もあくまでも「施し」なので金額は決まっておらず、「お気持ちで」という事。つまり「できる時に、出来る範囲で」というのが大原則。
とはいえ、「お気持ちで」という事は、理屈としては理解はできるが、やっぱりわかりずらい。
だから求めがあった場合、一般的な目安を伝える。けど原則は「できる時に、出来る範囲で」だから、最終的に判断するのは施しをする側にあるということだ
話を元に戻そう。
ちなみに布施には3種類ある。
布施には、金品、衣服などの財物を施す「財施」
僧侶がお釈迦さまの教えを説き施す「法施」
恐れを取り除く「無畏施(むいせ)」だ
我々が一般的にいう布施はほとんど「財施」である。とはいえ、私たちが日常でできるのは「無畏施」である。
こういう不安が万延してるからこそ「無畏施」を意識して日々を過ごすことが良いのではないかと思う。
「無畏施」はお金がなくても、知識や知恵がなくてもできる施し。
慈しみの心の現れであり、人々のココロをwell-beingな状態へ導きます。
とはいえ
えーそんな「無畏施」とか難しい漢字使われてもわかんないよ
と言う方に
例えば7つあるよねとお釈迦様は説く
無財の七施(無畏施の実践例)
1、慈眼施(じげんせ)
慈しみの眼、つまり優しい目で接すること
2、和顔施(わげんせ)
いつも和やかに、穏やかな顔、笑顔でいること
3、愛語施(あいごせ)
ものやさしい言葉を使うこと
4、身施
自分の体で奉仕すること。人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行すること。
5、心施
心配りや、共に悲しみ、共に喜ぶこと。
6 床座施(しょうざせ)
お年寄りや妊婦の方、障がいを持っている方に席を譲ること。
7 房舎施(ぼうじゃせ)
人を家に泊めたり、休む場所を提供すること。あたたかくもてなすこと。
改めて見返しても、ごくごく当然な行いだ。
そして大事な事は、この7つは「例えば」であって、畏れを取り除く行いはまだまだ色々あるよね。
今回のコロナの騒動は、そんな日常・良き習慣を見直すいい機会として捉えるのもよいかもしれません。
信仰としでの仏教も良いですが、Way of Lifeとしての仏道もオススメです。
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