見出し画像

世界は社会

いつか溝は埋まるのだろうか。

セリフの変更があった。この時代にはそぐわない言葉のチョイスだったからだ。
些細な内容だったかもしれないが、そういうことに気づいた人がちゃんと発言ができ、そうだね、変更しよう
となるこの現場を誇らしく思っていた。


「全く、生きにくい時代になったもんだぜ」
と陽気な男が言った。気のいいやつだった。

私の生きている世の中は大体まあ、こんな感じだ。
悪気のない、気のいい、感じのいい奴らが
それを差別と気づかずに発言して、場合によってはその場を和ませる。
そこに凍りついている人間がいることも知らずにね。
集団において和みはかなり大切であり、水を差してはならない。
ましてや空気を一気に悪くする「それ差別だよ」は絶対に言ってはならない。
ムードメーカーの、気のいいあいつを、悪者にするなんて、みんな望んでいないからだ。


なぜこの現場でこんな発言が発生したんだろう
悲しくなった。

悪者に、ならないでほしかった。だっていいやつだから。
耳を疑う、という体験がこんなにも鮮やかにフレッシュに、自分に訪れると思っていなかった。



3月にさまざまな性加害が明るみに出てから、こんなにも被害に遭った人がいるのかと、こんなにも身の回りで起こっていたんだと愕然とした。それまでは私だけが特別不幸で不注意なんだと思っていた。そしたら周りの女優たちはほとんどみんな、同じような経験をしているというではないか。
そうなれば話は早い、私はこれらの事件が報道されるようになってから立て続けに違う女優たちと会って話をした。全員、大体まで話せば、わかる、わかる、と言う。なんなんだこれは。
そしてSNSでは男女での温度差も明らかになった。
大体の男たちは
「ハラスメントなんて自分の周りにはない」
「ハラスメントは最低。付き合う人間を選ぼう。自分は「選んで」きたので今最高の仲間達とやっていられる」

最後には自慢である。うぜえ




女たちと会って話す中で、この男たちは!と思う二人の俳優にこの話をしておきたく
同じ頃会って話した。二人とも、会うのは2、3年ぶりであるが、それまでは頻繁に会って近況報告やら情報交換やらで長時間おしゃべりに興じる仲であった。自粛期間がようやく明けたかな?というタイミングだった。


二人とはそれぞれ別の日に会って、これまで私があった性被害についても触れた。


結果から言えば、惨敗だった。
私は、彼らから聞きたかった言葉は聞けなかった。


しばらく会わない間に、彼らは変わってしまったのか?

いいや、彼らはしばらく会わない間に、順当に、おじさんに近づいただけだ。


一人は
なぜそんな怪しい奴に近づいたのかと言い

もう一人は
なぜ逃げなかったんだと言った。


そして二人とも

俺は「選んで」きたから、今こうして良い環境で芝居ができているよ
と言った。

確かに二人はステップアップしていた。

私がやっとの思いで決まった舞台の演出家からセクハラを受けたり、カメラマンから福生のラブホで襲われそうになったり、尊敬していた劇団の先輩からラブホに引き摺り込まれそうになったり、参加費5万のワークショップで主催者から「女はポニーテールでオーディションを受けよ。審査するのはおじさんばかりなのだから、おじさん受けするポニーテールが鉄則」とか言われて5万の意味、とぐったりしたり、
裸になる映画のオーディションを(根性で)受けなければやる気がない、と見なされる環境で苦しんでいた間


親愛なる二人の男たちはきちんと、「選んで」、然るべきステップを踏み

きちんと、キャリアを形成していった。



そんな彼らからしたら、私の話は、信じられないみたいだった。



「よくやめなかったね」




そう言われてやっと、自分が経験し続けたことは
普通じゃないのだと思った。
同時にこの言葉は、なんだかよそよそしく、ちょっとばかにされてる気がして、
とてもとても、きつかったな。



でも変だな、女優たちにとっては、結構普通なんだこんな話。

本当にただただ、彼らには見えていないし、想像もできないようだった。する必要も今のところ無いんだろう。

それは何事にも例えることができる。自分が恵まれている環境にあることになかなか気づくことはできない。
人はそれぞれ他人にはあって自分にないものばかり気になり、自分が人より多くを持っている事にはいつも無自覚だ。大切なのは、特権を捨てよということではない。持たざる者の訴えを「そんなものはない」と疑わずに、まずそのまま受け止めることだ。にわかには、信じられないことだろうけど。
あなたにとっての当たり前が私にとっては輝かしい特権であるという事を、もう一度伝えたい。




演技レッスンやワークショップを受ける前には聞き込みが必要だった。
講師がセクハラしないか、暴力的じゃないか、飲み会でミソジニー発言をしないか、「付き合う」ていで立場の弱い女優を性加害しないか。
少しでも怪しいと思ったら機会を見送らなければいけない。だって「ちゃんと選ばないと」愛人にされそうになったり体を触られたり、しますからねえ。
そうやって怪しいものを避けていると大体だめだ。何も受けられない。「女癖が悪い」という評価の人間はだいたい、性加害してると思って良い。断れなくしたり酔っ払わせたりして、性行為に持ち込んでいる。それが「女癖が悪い」の正体。

中にはこちらの勘違いで避けてしまった機会もあるだろう。でも、確証が持てないまま参加するのは、そうなっても良いということになる。そうなっても良いと思いながら、演技というセンシティブな領域の学びに、集中できるだろうか。
私は、安くないお金を払って参加する学びの場で、そういう不安を抱えながら時間を過ごすのは嫌だ。

万が一にでもそういう目に遭うのは、絶対に絶対に嫌なのだ。
そもそも「絶対に嫌だ」とこちらが意思表示しなくても、そんなことにならないのが普通のはずだ。


普通ではないのだ、この世界は。


というと芸能界だけの話のようになってしまう。よくない。世界は、世界である、全部だ。社会だ。
私は長い間飲食店でも働いているが、飲食ももれなくヤバイ。偉い人は大体おじさんの世界だし、女でそこで働くとなると少なからず接待要員のような扱いを受ける。その店の食事が美味しく楽しくなるサービスをしたいだけなのに、お尻を触らせなかったことで「せっかくの楽しい会が台無し」と言い放ったくそみたいなジジイ、それを客だからと咎めず見過ごした店の男たち。
環境を変えようと思い切って受けたレストランの面接では最初に彼氏や配偶者の有無を聞かれたりして、そんな出来事の少しずつにより、私の心には、私が私のままこの人生で、努力と継続だけで評価されることはまずないのだと、諦めが棲みついた。ワインが好きで飲食が好きで、意を決して受けたソムリエ試験に合格した。公式HPには毎年の合格者数が掲載されている。合格者数の横にはカッコがあり、数字が記されていた。それは全体の合格者のうちの、女性合格者の数だった。私の長年の努力の結果は、カッコの中に入ることだった。

飲食以外も全部ヤバイ。社会はヤバイ。みんなヤバイ。
社会で普通に働くってことはかなり困難だ。普通に、個人として尊重されることは、無理だ。だって私たちは華やかであることを求められメイクをしないことはマナー違反で、ヒールのついた革靴を履かされ、絶対にキレてはならず、笑顔でいなければならず、争ってはならないからな。


無理だな。
笑顔で説明するのも無理だ。

じゃあ私にできることはなんだろうか。

被害者たちは疲弊しきっている。被害者なのに説明を求められ、二次加害に晒され、最悪訴えられるリスクを負う。

加害者たちはその間も新作を発表したり、クラウドファンディングしたり、SNSで後ろ指刺される人間になってしまったよと母親に謝ったりしていた。

私も多くの被害者同様、疲弊している。
Twitterで発信すればたくさんのいいねの通知に紛れ込んでくる上から目線のアドバイスや性被害の話をエンタメ消費して楽しもうとする視線。現実に起こっていることが、画面の向こうからしたら恰好の暇つぶしなのだ。


私にできる事。
疲弊してしまった。Twitterに群がってくる悪意と天然ミソジニーを受け流すことに。
私にできる事。
今度こそこの機会を逃したくない。
数年前、日本でmetooが少しだけ広まった時、私は期待した。深い落とし穴に落とされ閉じられていた蓋が少しだけ開いた。ついに自分は救われるのだと思った。
でもその勢いはすぐに消えてしまい、ヤバ監督は作品を作り続け、パワハラ演出も賛美され続けた。

無かったことにされたなと気づいた時、無気力になり、落とし穴の蓋は閉じられてしまった。またゼロに戻った。

ずっと苦しんでいた。自分が悪かった、馬鹿だった悪い男を引き寄せる自分が気をつけなければと思っていた。下ネタに顔を赤らめたらその態度が可愛いとターゲットにされるから率先して汚い言葉を使ったり男が引くぐらいの下ネタを披露して笑っていた。それでも得られたのは「他の女と違う面白いやばい女」という男性社会で気に入られるつまらない私だった。男に媚びる、というのは髪のサラサラしたいい匂いのする女が猫撫で声で可愛くお願いすることだと思っていたが、私のしていたことも結局は「男に媚びる」だったのだ。死。


私にできることは、出来るだけこういう話をし続ける事だ。

疲れたら交代。

発信するのはまだちょっと怖いなと思ってる人たちは無理して表明発信しなくていい。

でもいつか私が疲れたら、交代してほしい。

あなたのおかげで生きているのかもしれません。