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他者への想像力と、それを伝える、そのことの権力

11/13、14とロームシアター京都で、2月に制作に携わった「Pamilya(パミリヤ)」の記録映像上映会を行っている。11/15(本日)の13:30からが最終回。
https://rohmtheatrekyoto.jp/event/60447/

きのう(11/14)はとにかく、上映後のレクチャープログラムとして企画した、龍谷大学のカルロス・マリア・レイナルースさんと、カルロスさんが紹介してくださった3人のフィリピンからの介護士たちの語りが、とんでもなく面白かった。いくつも興味深いポイントがあったのだが、やはり象徴的だったのは家族観について。

カルロスさんは、フィリピンの家族観を説明するにあたって「拡大家族」という言葉を使った。その意味は、日本でいう拡大家族とはちょっと違う。ある登壇者は、自分にとっての家族とは誰か、という質問に対して、たとえば「彼氏」とか「彼氏の家族」、さらには「隣人」「教会に通う人」などをあげる。そして、母親が出稼ぎというわけでもなく海外で働くというモデルができており、母と子の絆を保ち家族として成立するための独自の振る舞いが数多くみられる(「里帰りボックス」と呼ばれる荷物を母から子に送る文化の話も面白かった)。これまでずっとPamilyaの紹介文を書くときに、「フィリピンでは介護は家族が行うものという価値観があり」というように定型文にしてしまって書いていた部分、根本的に家族観が異なるということについて、より深く考えることができた。

ところで、作品を見た後のトークというのは、インクルージョン的な振る舞いを考えると、とても肝要なものだとは思う。しかしその一方で、トークの方向が何かひとつの結論を指し示すようなものになってしまうと、作品そのものの読後感が台無しになってしまうこともあり、私自身がそういうトークに呼ばれたり出たりするときにはいつも注意を払っている。
その意味では、今回のカルロスさんたちのトークは、結論を出すというよりも、観客に問いを投げかけ、自分のこととしてこの問題を捉えてもらう仕掛けをほどこし、そのまま終わる、という、より読後感を増幅させるような、作品との相乗効果がある、素晴らしいトークだったように思う。

他者への想像力を持ち、その他者の事情について伝えることが普段なら難しい人たちや、他者の事情を理解してくれない人たちにどのように伝え、したたかに問いを残すか。Pamilyaという作品自体も、カルロスさんの振る舞いも、その意味では共通していたと思う。

そして、その役割は、福祉でいうところのソーシャルワークに求められるところとも重なってくる。


いま、障害者芸術の界隈では、とあるハラスメント事案のニュースが席巻している。あまりに生々しすぎるのでリンクは貼らない。
一人ひとりと向き合い、そこでの尊い価値を、届かない人たちに届けるという、本来の福祉、本来の共生社会のあり方。その道のりは、マイノリティとマジョリティの対話の連続で、試行錯誤の道のりである。ただ、ひとつの道筋を、過剰に信じすぎるあまり、いつしかそこにしがみついてしまう。その道筋を、そしてその道筋を自分が生み出したと錯覚し、それを自分も周囲も信じてしまう。その結果、いつの間にか、尊い価値自体を、大切にしたかったはずの自分が、その価値を、蹂躙してしまう。
そういうことは、多かれ少なかれ誰にでも起こりうる。
わたしも加害者だ。
だとすれば加害者であることを反省しながら、それでもその場所で真摯にやっていくしかない。

衝撃的なニュースで頭が混乱しているなか行っている今回の上映の機会は、私自身、その対話の実験として行っているのかもしれない。

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