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パラリンピック開会式は批判されてもいいが

昨日、東京パラリンピックが開幕し、開会式が行われたが、このことはある意味では批判されても良い出来事だと思う。

私は文化政策・アートマネジメントの分野の研究者で、特に障害のある人の表現活動についてはいくつか本や論文にも書いてきた経緯がある。この開会式をはじめ、オリンピック・パラリンピックの文化プログラムには多くの友人・知人、お仕事を通じた関係者が多数関わっている。

開会式はリアルタイムでは見られなかったのだが、録画したものを先ほど見終えた。(オリンピックの開会式とどうしても比べて見てしまうが)ストーリー性が明確で、適正規模の技術を使い、エンターテインメントとしてそれなりに格好良い演出だったと思う。個人的にはやはり森田かずよさんというダンサーの出演するシーンは、長年森田さんとの交流をさせていただいている身としても、パフォーマンスとしても、ぐっとくるものがあった。(ちょっと宣伝すると「舞台の上の障害者」という私の著書で森田かずよさんの創作の経緯などを追っています)

国家プロジェクトとしては大成功なのだろうとも思う。
ただこの、それなりに格好良いというのは厄介で、どうやっても、マジョリティにとって受け入れられやすい側面のマイノリティの人々を切り取って表象せざるを得なくなる。その意味では、パラリンピック自体が障害者エリートの祭典であるという批判がなされるのと同様、開会式自体も「マジョリティ向けマイノリティ」の祭典である点は否定できない。私自身あのDJやロック調の音楽に、ストーリーとともにわかりやすく見せられる「障害」像に、正直ついていけないと感じる瞬間があったのも事実だし、そう思った人は私だけではないんじゃないかなとも思う。

だが、その批判以上に、やはりモヤモヤするのは、開会式の外側の声である。「パラリンピックも(オリンピックでもフジロックでもいいのだが)中止すべきだ+そこに関わる人々はあり得ない」/「実施すべきだ」という二項対立の議論や、「オリンピックを批判していた人がフジロックを批判しないのはダブルバインドだ」というたぐいの議論である。

当たり前だが、活動や組織に関わる一人ひとりがすべての意思決定を自分の意思でできるわけではない。当然、昨日の開会式に関わる人々の中には、本当は感染対策上開会式をやるべきではない、もしくは参加することに不安がある、という人もいただろうと思う。
それでも、と選んで参加しているのは、その人自身の基準である。
生涯に1度もないかもしれない、「あの」パラリンピックの開会式の舞台、ということで人生を賭けていた人々が実際にたくさんいる。その人の評価基準においては、とにかく開会式が実施されるのであれば参加しないという選択肢はなかったという人も多かったのだろうと思う。
その、出演者一人ひとりの意思や決断に対して、遠くから批判する言葉を投げかけるのはちょっと違うと思う。あの範囲のなかで、それでも何かの都合でやらなければならなかったプロジェクトの中で、最大のパフォーマンスを見せようとしていたと思うし、実際にそれはある程度成功していたように見える。
開会式は批判されてもいい。ただしその際に批判されるべきは、個々人に対しては、そこで繰り広げられたパフォーマンスに対してのみであってほしい。それ以上の批判は、そこに出演を決めた個々人ではない。それを方向づけた組織や、意思決定機関に向けられるべきであろう、と思う。

私自身は今、新型コロナウイルスの猛威をたいへん間近に感じる日々を過ごしている。オリンピックもパラリンピックも中止すべきであろうと、今でも思っている。しかし、大きな意思決定機関への不満と、個人の行動の是非は連動させてはならないと、今となっては強く思う。
オリンピックをやっているのだから私もこれくらいやっていいだろう、という行動の、責任を負うのは、社会ではなく自分だ。私自身と、その周りにある環境を、すこしでも安心に、安全に、かつ尊厳を持って過ごせるための努力は怠りたくない。
昨日の開会式で達成感にあふれているパフォーマーたちに、私は、その尊厳を守るという姿を投影した。


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