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心の中で歌っている場合ではない。

新型コロナウイルス感染症の芸術分野への影響は続いている。私が暮らす福岡県内でも被害は深刻で、個人で平均約44万円、事業所で平均632万円(!)の収入損失が出ているという統計が出ていることには本当に驚く。どこの地域でもそういうような状況なのだろうと思う。他の地域でも同じような状況だろうと思う。

もちろん、コロナウイルスの問題は芸術の問題にとどまらないし、芸術なんかよりもまず、という声が聞こえるだろうと思う。しかし、少なくとも福岡では2月下旬から自粛要請は強く聞こえており(通勤電車は満員なのに、と愚痴りながら公演を取りやめる人の声をよく覚えている)、それが現在にまで続いているのだから、他の業種よりもいち早く自粛している。すくなくとももう3ヶ月になる。それってけっこうしんどい業種じゃないですか。

幸い、新型コロナウイルス感染症自体はずいぶん感染の速度は落ちてきたようで、本当によかったなと思う。ただ、じゃあ、いきなり芸術分野の収入が、活躍の場が、もとにもどるか、というと、それは違うのである。観客なくしては戻らない、劇場が開かなければ戻らない、人々の収入が戻らなければ芸術を鑑賞するという文化は戻らない。おそらくここまでの自粛のプロセスと少なくとも同じくらい、いやそれ以上の時間が、もとに戻るまではかかるだろう。
とほうもない。

だからこそ、芸術分野の支援は広がっているし(おもに草の根が早く、行政の動きは遅かった、かつ、的確かどうかなかなか難しい局面も多く、これはまたきちんと言っていきたい)、さまざまな芸術の活動も広がっている。

私が所属する大学の研究所「ソーシャルアートラボ」で携わっていた企画は、幸い予算が減るということにはなっていないのだが、当然のように企画変更を余儀なくされている。

障害のある人の演劇活動に関するワークショップは、対面は当然NG。じゃあいったい何ができるのだろう、と仲間たちと議論し、いつもお呼びしているアーティストたちと議論し、「じゃあいったい何ができるのだろう」という議論をするところからオープンに進めていく方向で企画を考えている(6月・7月にそれぞれ実施予定)。

山村で一時滞在している外国人と一緒に合宿形式でワークキャンプをしながら「半農半アート」の生活を試み、地域に新たな「芸能」を立ち上げようとするアートプロジェクトは、そもそも外国人が来られる状況になさそうであるということと、合宿形式というのも若干無理があるということで、どうしようかというところで、話し合いを続けている(こちらは8月〜9月に、何かはできるといいなと思って進めている)。
ただ、このことで、地域のNPOでこの企画を一緒に進めている方の言葉に、ぼくはずいぶん勇気づけられた。
こういう災害、災厄があるところから、芸能が立ち上がるんじゃないか、と。
この今だからこそ立ち上がる何かを信じてやらないと、とてもじゃないがやっていられない。し、実際にその動きは始まっているようにも思う。

このブログを書いているのは、下記のニュースをSNSで見た時の、なんともいいようのない怒りからである。

名古屋市教育委員会は各小・中学校に6月1日からの授業再開にあたり、学校での新型コロナ対策について具体的に通知を出しました。
座席は児童・生徒の間隔を確保するため少しずつずらして配置し、それぞれの間に1mの距離を確保するよう求めています。
音楽の授業では鍵盤ハーモニカの代わりに卓上木琴などを代用したり、飛沫が飛ぶため実際に歌を歌うのをできるだけ避け、CDを聴いて心の中で歌ったりハミングする活動を取り入れるよう求めています。
バスケットボールなど、接触が想定されるスポーツ種目は、個人練習を先に行い、ゲームの時期を3学期などに先送りするよう求めています。水泳の授業は今年度は中止です。

・・・いや、わかる。
わかります。
実際に歌を歌った飛沫が、
他者にウイルスとともに伝わってしまった際のリスク。
それは、もう十分というほどわかります。
でも、代替案が、それですか。はああ。
と思ってしまう。


ソーシャルアートラボでの、企画の変更をしていく際によすがになっているのは、これまでやってきた事業の評価に関する議論や、社会包摂に関する議論。
とくに今回の局面では、協働的なアートプロジェクトやアートマネジメントにおいて重要な要素は何かを現場から抽出し指標をつくろうと試みている同僚の村谷つかささんの試みに勇気づけられているし、実際に役立っている。その試みを私なりに要約すると、人々が企画を考えるときに頼れる「言葉」を置くことを通じて、自分たちがやっていることの本質にある大事なことは何か?という問いにせまろうとする態度である。
自分たちがやっていることを振り返り、言葉にし、次に進むために、(村谷さんの言葉を使うと)「指標」を立てるための議論をすること。
今だからこそその議論をしていくことで、この社会、この状況における自分たちの企画の役割が見えてきている。

自分たちがやっていることの本質にある大事なことは、何か。
「CDを聴いて心の中で歌ったりハミングする活動」は、
音楽教育が本来求めようとしていた本質的な活動なのか?
音楽教育の現場で働いたことがないので、ここは、わからない。
でも、たぶん、なんか、違う気がする。

音楽でさえあればいいわけではない。心の中で歌っている場合ではない。
音楽教育の本質にある大事なことは何か?
そのうえで、今の状況に即してできることを、現場に応じて考えてみると、実際にできることというのは、今までの音楽教育のあり方とは別のところにあるのかもしれないと思う。音楽という形をとっていないものかもしれない。でも、それでもいったんは、いいんじゃないか、とも思う。

あまりにも、安直で、貧相で、悲しくなってくる。

もちろん、いろいろなところに「現場」があり、「現場」はそれどころではないのだろうなあ、と思うし、行政だけに責任は押し付けたくはない。もっともっと豊かな代案を、考えなくてはならないし、実装させなければならない、のだと思う。

まいったなあ。何からしたらいいのかなあ。

(ちなみに画像は昔鍵盤ハーモニカ奏者だったので、そうかあ木琴奏者にならないといけないのかあという気分で、昔mixiで使っていたアイコンの一部を)

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